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秦漢帝国-③統一国家のグランデザイン

中華初の統一王朝となった秦は、わずか15年であえなく崩壊。このまま分裂状態に戻れば、統一国家としての中国は生まれず、ヨーロッパと同様に複数の国家がひしめく地域になっていたかもしれない。しかし、続く漢王朝によって、中華世界における統一国家のグランドデザインが完成する。

このNOTEは、歴史のスペクタクルを記述するより、歴史を通して組織論を考察するのが趣旨なので、秦朝崩壊後の項羽と劉邦によるドラマチックな覇権争いをバッサリカットし、漢による新国家づくりを見ていこう。

郡国制によるハイブリッド統治

皇帝として新たに王を束ねる存在になった劉邦だが、本音を言えば、秦と同様に地方の王を廃し、「郡県制」による中央集権で統治したかった。しかし、うまくいかないのはすでに証明済みだ。

出した結論はハイブリッド型統治。旧秦の支配領域のように、氏族制が弱い地域は郡県制。それ以外のエリアは、親族や臣下たちを王にして各地に封建した。もちろんこれは、皇帝を脅かす地方勢力が割拠しかねないリスクがある。そこで劉邦は、せめて王たちをまったく縁故のない土地に封建し、その血族による縁が根付かないうちに、徐々に中央集権型にシフトしていく政策を採った。

大きな戦乱が終結した後に起こるのが、統一に貢献した武将をどうするか問題だ。圧倒的武才を持つ項羽に劉邦が勝利できたのは、韓信、張良、蕭何といった優秀な人財が集まったからだ。文官である蕭何はそのまま国家建設を担い、軍略家の張良は後の混乱を予兆したかのように隠遁を決め込んだ。残る韓信はその武功が認められ楚王に封じられた。しかし、やがて韓信を始めとする武将上がりの王は全員粛清され、劉氏一族以外は王になれなくなった。

この手の粛清は、歴史上何度も繰り返される。この後の歴代中国王朝でも、統一後は決まって粛清の嵐が吹き荒れた。日本でも同様。源義経は頼朝に殺された。17世紀に徳川氏による支配体制が整うと、関ヶ原の功労者である福島家、加藤家はお家取りつぶしとなった。平和の時代に功ある武将は、不要どころか害にしかならないのだ。

やがて漢王朝では、王は地方から引き離され、都での優雅な暮らしを与えられ、地方は中央から官僚を派遣して統治するようになる。7代皇帝の武帝の頃には、中央集権国家としての統治体制が確立。そのパワーを持って匈奴を破り、漢における最大版図を実現するに至った。

儒教国家の成立

いったん秦による中華統一時に時間を巻き戻す。統一後に秦王が最初に行ったことは、君主の新しい称号を定めることだった。そして決まった「皇帝」とは、「皇」は光り輝くという意味、「帝」は上帝もしくは天帝を意味する。すなわち「光り輝く絶対神」という意味を持つ称号だった。つまり彼は、絶対支配者として自らの神格化を図ったのだ。その後、始皇帝が不老不死にこだわったのは、この権威を未来永劫に保持したいがためだったのかもしれない。

皇帝の称号は漢に引き継がれ、劉邦が漢の初代皇帝として即位する。しかし、劉邦が庶民出であり、ちょっと前まで任侠の親分みたいな存在だったことは誰もが知っていた。各地の王に推戴されて、固辞しながら皇帝の座についたものの、名乗れば権威が勝手についてくるものではない。人が人に自ずから従うには、権威の正統性が必要となるのだ。特に、建国者その人だけでなく、その血筋にまで権威を引き継ぐためには。

この正統化の理論を組み立てたのが、儒家たちであった。皇帝は「天子」とも呼ばれ、その呼称は意図的に使い分けられていた。皇帝とは、法家思想を軸に置いた秦に由来する称号であり、権力による中華の支配を意味する。天子とは、由来を周の時代にさかのぼり、天命を受けた聖なる人が世の中を治めることを意味した。

古代から近世まで、古今東西の支配者は、多かれ少なかれ権威付けを”人間を超越するもの”に求めた。元老院と市民の支持により推戴されるとしたローマ皇帝でさえも、死後は神君化され、その権威を継承するための宗教的儀礼を重視した。

権力を背景とした法だけでは、支配の正統性は生まれない。儒家たちは、古来からの故事、因習、儀礼を根拠とし、現状にあわせて解釈しなおすことで、支配の正統性の論理を精緻に組み立てていった。そのために、「鬼神のような人間を超えたものは遠ざけよ」とした孔子でさえも神格化されていった。

こうして儒家思想は「儒教」となり、中華国家の思想的支柱となった。前漢、後漢を含め、漢王朝は420年あまりも続き、中国における統一国家のモデルとなった。

中華統治の大原則

こうして漢の時代に確立された中華国家における統治の大原則は、次の三つになる。

①大統一。中華世界は統一されていなければならない。そのため、あらゆる思想や文化は国家が統制する必要があった。

②華夷思想。つまり中華と夷狄の世界観。天子が徳治する中華を内とし、徳の及ばない夷狄を外の世界として捉えた。それは地理的に決まったものではなく、教化が及べはその土地は中華の内と見なされる。

③皇帝すなわち天子による支配の正統性。中華を実力で支配する皇帝の権力を、天命を受けた聖なる天子の権威によって正統化した。そのための祭天儀礼は極めて重要なものとなった。

振り子の原理

儒家の思想は、国家統治の論理形成を経て、法家思想を取り込みながら変質していく。驚くべきはその柔軟性だ。原理主義に陥らず、相反する思想を内包しながら、振り子のようにバランスをとっていく。

時代ごとに、徳による「寛治」と、法による厳格な「猛政」が、交互に繰り返された。前漢の武帝の時代は、法を用いた厳格な支配により中央集権化を進めた。次の宣帝は、「漢は覇者の道(法)と王者の道(儒)をまじえて支配を行なってきた」と息子に語っているとおり、バランスを意識していた。後漢時代は、刑罰を用いず徳を持って人を教化する寛治が奨励された。

そして後漢末期、再び国は乱れ、世に言う三国時代に突入する。曹操は、寛治による支配の弛緩を批判し、厳格な猛政を敷くことで秩序を維持した。諸葛亮孔明も、蜀の地で厳格な猛政による統治を行い、国の引き締めを図った。

元はと言えば、徳による統治を説いた性善説の孟子も、法家を輩出した性悪説の荀子も同じ儒家なのだ。そこには矛盾を内包する人間に対するリアリズムが見てとれる。後世の儒家たちは、寛治であれ猛政であれ、その思想の柔軟性によって統治の理論を組み上げていった。

組織は必ず腐敗する

西欧的な進歩史観に対して、中国は循環的な歴史観がベースとなっている。優れた君主が現れ、仁政を行い世が治まる。その権威は世襲され、やがてその中に暗君が現れる。政治が腐敗し世が乱れる。やがて民衆が立ち上がり、その中から現れる新たな英雄に天命が降り、王朝が交代する。以下歴史は繰り返されていく。

18世紀から19世紀初頭の西欧の思想家ヘーゲルは、テーゼ(正)、アンチテーゼ(反)、アウフヘーベン(合)を繰り返すことによって、世の中は発展していくと唱えた。このように、西欧社会には、階段状に思想や社会が発展していくという考え方が流れている。

対して東洋では、真理を極めた聖人の思想にさまざまな解釈を加えていくことで、時代に合わせて発展させていった。古典に後世の人が注釈を加えていくが、大元の思想は覆されない。儒教しかり、仏教しかり、道教しかり。

そうして解釈を加えることで、相反するものを内包させていく。性善説と性悪説。仁と法。寛容さと厳格さ。矛盾するものを揺り動かしながら、全体としてバランスを取っていく。

それでも組織は徐々に腐敗していき、やがて寿命を迎える。そして崩壊の中から新たな秩序が生まれる。絶えず代謝を繰り返す生命体とその共生環境のようだ。

このような観点から自分の組織を見ていくと、打つべき手が見えてくるかもしれない。今、バランスはどちらに偏っているのか、反対側に揺らしてみるとどうか。原理主義的に組織を固めると硬直化してしまう。絶えず揺り動かし、変化させながらバランスをとっていく。変化が止まったら、それが組織の死だ。


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