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ローマ帝国-①共和政から帝政へ

今回から三回にわたり、古代ローマについて考察してみたい。ローマは歴史が長いので様々な考察ポイントがあるのだが、第一回は、共和政から帝政への移行期に触れ、どのような流れで帝国が築かれたのか。第二回は、五賢帝を中心に、ローマ帝国を率いた皇帝とは何者で、それはどのように継承されたか。第三回は、ローマ帝国の衰亡を見ることで、帝国を繋ぎとめていたものは何だったのかを考えてみようと思う。


組織が持つ慣性の法則

組織には、常に分裂しようとする慣性が働く。全体最適の視点を失い、小組織に分裂し、自己の利益を最大化しようとする。それを率いるリーダーは、その利益代表者となり、戦国武将化して割拠し始める。小組織の所属員も、自分たちに利益をもたらしてくれるリーダーを歓迎し、共犯関係が生まれる。そうやって組織はサイロ化していく。

あなたがもし150人を超える企業に属しているのであれば、そんな部門リーダーを必ず目にしているはずだ。ひょっとしたら、自分たちを代表して経営と戦ってくれるリーダーとして、頼もしいとすら思っているかもしれない。

これは企業だけでなく、国家を含めたあらゆる組織が持つ慣性の力だ。だから、組織の統一を保つためには、様々な人々を引き寄せる求心力と、分断をつなぎとめるための絶え間ないメンテナンスが必要となる。

東西世界の帝国化

さて、歴史の話に移ろう。ちょうど紀元前後を跨ぐ時代に、高度な統治システムで多民族をまとめ、それを広範囲かつ長期に渡って維持した帝国が、東西世界それぞれに誕生した。

東は漢王朝。中華世界を初めて統一した秦を引き継ぎ、長期的な統治体制を確立した。西は古代ローマ帝国。イタリア半島にあった小さなポリスが、地中海世界全域を統一支配する巨大帝国を築いた。

絶対君主によって統治された点、多様な民族、風俗、宗教を内包しながら秩序を確立した点、それを広範囲かつ長期に渡って維持した点は共通している。だが、その成り立ち、君主の立ち位置、国家のシステムは著しく異なる。

その後、中華世界は、王朝交代がありながらも分裂しては再統一される歴史を持つのに対し、地中海世界は、ローマ帝国崩壊後は二度と統一されることはなかった。神聖ローマ帝国という、神聖でもなく、ローマでもなく、帝国でもなかった諸侯連合は生まれたが。

古代ローマとは

古代ローマの特徴は、倒した相手を従属させるのではなく、自分たちに同化し、共生していく性質にある。支配領域を広げるたびに、ローマ市民権を解放していった。そして実質的支配層である元老院議員資格でさえも解放していった。はじめはイタリア全域に。その後は帝国領内全域に。この点が、市民権を制限し、領土を広げることがなかった古代ギリシアと顕著に異なる。この性質こそが、一都市国家に過ぎなかったローマを、多種多様な民族、風俗、宗教を内包する巨大帝国へと発展させた根源だ。

ローマ建国は王政から始まったが、成立後まもなく共和政へと移行する。古代ローマの共和政とは、貴族層によって構成される元老院から提出された政策を市民集会が承認するプロセスで運営された。以降、ローマ人は、共和政に対して強い誇りと信念を持ち続ける。

その意識は、欧米文化圏において現代まで受け継がれている。映画スターウォーズは、各星代表の銀河元老院による共和政を掲げる連合軍と、皇帝率いる帝国軍の戦いだ。元老院体制を打倒したパルパティーン議員は、悪の皇帝となり帝政への移行を宣言する。まさに古代ローマの歴史をなぞった物語だが、帝政を悪、共和政を善として描いている点が、根強い共和政への憧憬を感じさせる。

カエサルの登場

共和政ローマの最高職は執政官と呼ばれ、政務の最高責任者であり、軍の最高指揮官でもあった。これらの権限を持つ者をインぺラトルといい、これがエンペラー(皇帝)の語源となる。元老院が候補者を出し、民会で2名選出される。任期は1年に限定。王政からの移行以来、絶対に独裁を防ぐための仕組みとして機能していた。

ポエニ戦争以降、カルタゴを排除したローマは、急速に支配領域を拡大していく。その結果、元老院議員による合議で物事を決めるには、ローマは大きく複雑になりすぎてしまう。政策の一貫性も保てないし、時間がかかりすぎて広い国家を防衛・維持できない状態に陥る。

そんな中、他国との戦争や内乱などの危機状態を収めるため、強力なリーダーがイレギュラーな権限を持って事に当たることが常態化してきた。マリウス、スッラ、ポンペイウスといったリーダーが次々に現れ、主導権を争う内乱の時代へと突入する。この時点で、共和政は事実上機能していなかった。

その状況に終止符を打ち、後のローマ帝国のグランドデザインを描いたのがユリウス・カエサルだ。元老院体制の打倒を目指してルビコン川を渡り、内戦に勝利し、帝国化への舵を切った。終身独裁官となって集権的統治体制を固めたが、ブルータスらの共和政を信奉する貴族たちによって暗殺されてしまう。

ローマ帝国の成立

Statue of Julius Caesar Augustus in Rome, Italy

カエサルが消されたとはいえ、従来の元老院主導による共和政体では、広いローマを統治できないことはすぐに表面化した。そして再び内戦に突入する。最終的に、カエサルに後継者指名されていたオクタビアヌスが勝利し、紀元前27年に元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられた。ここにローマ帝政が始まったとされる。

このような経緯で、ローマは共和政から帝政へと移行した。「みんなで話し合って決めよう、責任は分担しよう」方式から、「ただ一人が責任追って全部決めよう」方式に変えたわけだ。この「ただ一人」に対し、日本語では「皇帝」という漢字を当てているが、中華世界のそれとはまったく性質が異なる。

名目上は「共和政」の「帝政」

内戦勝利後の紀元前29年、オクタビアヌスには元老院からプリンケプスの称号が贈られた。これは元老院内での第一人者であり、ローマ市民の第一人者を意味するもので、初めて使われる称号ではなく、かつてハンニバルに勝利したスキピオ・アフリカヌスにも贈られた先例がある。この呼称に象徴されている通り、ローマ皇帝とは、元老院と市民によって選ばれた代表者であるという前提があった。

そしてその二年後、絶対権力を手にしていた彼は、共和政復帰宣言を行った。一時的に自分に集中していた特権を市民に戻すと宣言したのである。これに元老院議員たちは狂喜した。再び自分たちの手に、舵取り役が戻ってくると思ったのだ。この宣言の三日後に元老院から贈られたのが、アウグストゥスの尊称である。

これはすべてオクタビアヌスが周到に仕組んでプロデュースしたシナリオだ。共和政復帰宣言で破棄したのは、実は内戦による危機管理のための一時的な特権に過ぎず、すでに有名無実化していた。アウグストゥスという呼称も、独裁者を連想させないものとして彼自身が選んだものだろう。元老院は、その尊称と共に、満場一致で全権を改めてアウグストゥスが掌握することを懇請した。つまり、彼は一度権力を返して、改めてそれを請われて受け取る形式を取ったのだ。

その後、アウグストゥスは、長寿も味方につけ(77歳まで生きた)、慎重かつ合法的に集権化を永続させる仕組みづくりを進めていった。カエサルを反面教師として、元老院を刺激せずに、あくまで自分は市民の代表者であるという文脈を守りながら、政策決定権、人事任命権、軍事指揮権を一人に集中させる体制を築いていった。

後世から見れば、彼からローマ帝政が始まるのだが、同時代には宣言通り共和政が戻ったと感じた人々もいたらしい。アウグストゥス自身、「権威では他の人々の上にあったが、権力ではわたしの同僚であった者を超えることはなかった」と書いている。だが、権威とは権力の一部であり、それが抜きん出たものであれば、それはほぼ同義なのだ。

カリスマリーダーからの継承

古代のヨーロッパ世界において、最も高度な手腕を持った政治家は誰かと問われたら、一人はアウグストゥス、もう一人はアテネ最盛期を30年支えたペリクレスを選ぶ。

民主政体のアテネで、市民全員が政治参加しているという建前を保ちながら、実質的に一人でアテネを導いたペリクレス。共和政の復活を謳いながら、ただ一人の君主による中央集権統治体制を築いたアウグストゥス。矛盾をはらんだ文脈をマネジメントする、まさに魔術のような手腕だ。

古代アテネは、ペリクレス死後急速に衰退していったが、ローマ帝国はここから400年続く。並外れたリーダーによるカリスマ的権威と的確な舵取りは、組織を一つに繋ぎ止める力になる。だが、それは一世代に限る。超優秀なリーダーを連続で排出し続けるのは不可能だ。

現代でも、カリスマ創業者が後継に困っている状況は枚挙にいとまがない。血統などの伝統的権威が絶対でない社会において、リーダーの継承は非常に難問だ。もちろん古代ローマでも血統は重視されたが、共和政からの移行という経緯から見ても、オリエントや中華社会ほどの絶対性はない。血のみでリーダーの権威は継承されない

では、その後の皇帝たちは、どのような人物だったのか。ローマ帝国はどのように継承されていったのか。第二回では、パックスロマーナを支えた五賢帝を中心に、皇帝の継承問題を考えてみたい。

(次回に続く)

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