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秦漢帝国-②統一国家の誕生

中国はなぜ一つなのか

よくよく考えると不思議だ。これほど長期に渡り何度も統一され続けた国は他にない。世界史において、これは極めて例外的なことだ。

領土は広大で、とんでもなく大勢の人が暮らしている。言語、民族、文化は多様であり、気候条件、地理条件も場所によってバラバラ。ヨーロッパのように複数の国が併存している状態でもおかしくない。というより、その方がむしろ自然だ。なぜなら、元々分裂状態だったのだから。バラバラだったものが、なぜ統一を繰り返すようになったのか。

一つには、北方異民族に対して備えるため、統一されてる必要性があるからだ。ユーラシア大陸中央部に広がるステップ地帯には、無数の遊牧民族が暮らしている。気候変動などを引き金に、突如カリスマ的英雄が現れ、諸部族をまとめ上げ、暴風雨のように周辺国を侵略の渦に巻き込むという歴史を繰り返した。中国は、古来よりずっとその脅威にさらされてきた。ゆえに、国家の力を一つに結集し、その暴力に対処する必要性があったのだ。

二つ目の要因は、漢字文化だ。話し言葉は地域ごとに著しく異なり意思疎通が難しいレベルだが、漢字は表意文字なので筆談ができる。ヨーロッパ世界で公用語とされたラテン語は表音文字なので、読めない人にとってはさっぱり意味がわからない。長い間ラテン語を使えるのは聖職者に限られていた。「漢字」というくらいなので、秦、漢による中華統一前は国ごとに別々の文字を使っていて、一部知識人以外は通訳が必要な状態だった。文字の統一後は、全国に文書によって通達を送り、広大な領土を管理・統制することが可能になった。加えて、文化・風習が異なる地域であっても、意思疎通が可能な「同朋意識」を形成することになった。

そして三つ目に、初の統一王朝である秦から、初の長期統一王朝の漢にかけて、国家を統治するための基本思想とシステムが確立されたことが大きい。儒家と法家。二つの源流となる思想がベストミックスされて、国家統治の基盤ができあがる。新しい王朝に替わっても、たとえそれが清のような異民族によって成立した王朝であっても、そのシステムは引き継がれていった。


中国が分裂していた時代

統一国家の統治基盤がどのように成立したのかを考察するためにも、まずは中国が分裂していた時代を見てみよう。

およそ紀元前1000年から紀元前400年頃、西周王朝から春秋時代にかけて、国の単位は「邑(ゆう)」と呼ばれる城壁に囲まれた集住地を指し、そんな邑同士が結びついたネットワークによって、国の勢力が形成されていた。周王が治めていたのは鎬京という邑のみで、その他の邑は周王と結びついた諸侯が治めていた。そして、邑の城壁外には王とは関係なく暮らす多くの人々がいた。

では、それらの邑は何で結びついていたのか。それは血縁だ。王は自分の氏族の娘を諸侯に嫁がせ宗族とし、国を大きな家族に見立てて勢力を広げていった。諸侯も自分の重臣に娘を嫁がせて、同様の構造を重層的につくりあげていく。これを氏族制社会と呼ぶ。

宗族の本家と分家のヒエラルキーは絶対だ。生まれた家によって、どの地位に就くかが厳格に決まっている。能力や人格は関係ない。こうした入れ子上のヒエラルキー構造が、王から諸侯、小さな町から末端の庶民まで浸透していた。

逆に言うと、この重層構造のため、王は末端の民のことが直接コントロールできない。たとえ自分の勢力範囲だとしても、ある地域でコトを起こそうとする場合、その地域の有力者を通す必要がある。

だから、王は自国内にどれだけの人が住み、どれだけの生産高があり、税収があるのか、正確に把握できない。諸侯配下の部下に対し、直接刑罰を下すこともできない。諸侯配下の軍を勝手に動かしたり、配置換えしたりすることもできない。つまり、王は民衆を間接的に支配しているにすぎない。

戦国七雄の時代

この氏族制社会の構造が徐々に揺らぎ、身分秩序が壊れていくのが、漫画『キングダム』の舞台となっている戦国時代だ。

その背景には、鉄製農具と牛犂耕の普及による生産力の劇的な向上がある。人々が宗族に頼らずとも食っていけるようになり、中には本家を超えるほど豊かになる分家も出てきた。

そうなると、これまでの秩序が揺らぎ、下剋上の時代へと突入していく。戦乱はますます激しくなり、各国が生き残りをかけて、生まれを問わず優秀な人財を抜擢するようになる。諸侯同士の併呑の結果、斉、燕、趙、魏、韓、楚、秦の戦国七雄と呼ばれる国々に集約されていった。この頃には、それぞれの国を支配する諸侯は王を名乗るようになり、邑以外のエリアにも支配が及ぶ領域国家となっていった。ちょうどヨーロッパと同じような状態だ。

とはいえ、1000年以上も続いた秩序が一気に崩れたわけではない。宗家と分家のヒエラルキーは依然存在するし、そうした上下関係は道徳観念として定着し続けた。儒家は、この秩序を取り戻そうとした思想家集団だ。世の乱れを嘆き、古き良き時代を理想としていた。

ところが、戦国七雄の中にひとつ、明らかに異質な国家が誕生した。血縁や土着の人間関係を完全無視して、「勝てる国になる」ことに振り切り、システマチックに人間を統治した国、それが秦だ。

法治国家、秦の成立

秦が異質な国家となったのは、紀元前4世紀半ばの商鞅の変法による。時の君主であった孝公は商鞅を起用し、法家思想を全面的に取り入れた改革を断行した。

この改革を一言で表すと、「絶対君主が直接臣民を支配する超フラット型組織」への転換だ。この時代は、先ほど述べたように、氏族関係のピラミッド構造によって成り立っていた。君主は直接民を支配しているわけではなく、ローカルの有力者を通して間接的に支配していた。こうした人間関係や氏族秩序に基づいた身分制を全部取り払い、絶対君主の下での、法の下の平等を実現したのだ。

中身を見ていくと、信賞必罰の徹底、能力・成果主義による身分を問わない抜擢、中央から派遣された官僚による地方統治(郡県制)が特徴だ。だから、飛信隊の信のように、庶民から大将軍に成り上がることもあり得た。

古い因習にとらわれず、実力で公平に評価されるならいいじゃないか、と一瞬思うかもしれない。ただし、秦に住む民なら、国の都合によって先祖代々住んでいた土地から、縁もゆかりもない土地へ強制移住させられたあげく、見知らぬ家族とグループを組まされ、相互監視の中暮らすことになる。同じグループの人が法に反することをすれば、連帯責任を負わされる。

こうして、ローカルな人間関係をバラバラにして、法と官僚によって人を直接支配するシステムをつくり上げた秦は、他国を圧倒した。王の意のままに動く兵を有能でハングリーな将軍が率いた軍は、勝ちに勝った。民を直接掌握しているため徴兵力も圧倒的で、系統立った軍事訓練を施された100万の精鋭がいたとされる。

他国ではなぜ同じことができなかったのか。例えば楚の国は、氏族制が強く残り、ローカルな権力者の力が強かったため、王が諸侯配下の軍に直接命令を下すことができない。改革を試みたこともあったが、既得権者の猛烈な反発で頓挫してしまった。当たり前だ。一度の失敗で特権を失ってしまうような改革をどうして受け入れられるだろうか。秦は元々辺境国であり、土着勢力が相対的に強くなかったため、極端な改革が可能だったのだ。

信長との共通点

これより2000年ほど後、我が国での戦国時代に、似たような構造改革を行った人物がいた。織田信長である。

当時の戦国大名というのは、土着の国衆を取りまとめる盟主のような存在で、すべての軍を自由に動かせる存在ではなかった。国衆の関心は自分の領地を守ることであり、田植え稲刈りの時期になれば、戦争へは行けなかった。

信長は、羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益のような、素性が知れず土地にしがらみを持たない有能な家臣を取り立て、銭で雇った兵を与えた。こうして、自分の命令で自由に動かせる軍団ができあがった。信長の軍団だけは、土地の事情に縛られず、一年中動かすことができた。

南蛮好きで有名な信長だか、統治の仕組みは中国を参考にしていた節がある。もし、あのまま全国統一を成し遂げていたならば、おそらく大名による諸国の支配体制を壊し、中央官僚による郡県制に移行していたのではないか。その時、秀吉や光秀などの有力武将は粛清の対象となった可能性が高い。ひょっとしたら秦の始皇帝のように、天皇に変わる絶対者として、新しい国家秩序を築こうとしたかもしれない。中国の歴史がその前例を示している。教養のある光秀は、当然それを予測できたはず…などと妄想が膨らむ。

中華の統一

話を戻そう。紀元前221年、秦は中華統一を成し、秦王嬴政は始皇帝を名乗った。秦のシステムをベースに、統一国家の仕組みが整備されていった。郡県制の施行、文字、貨幣、度量衡の統一。

儒家思想は、いわゆる焚書坑儒により、徹底的に弾圧された。儒家の思想とは、仁と礼による秩序形成であり、それは家族への孝が基本となる。そういう血縁、地縁をぶっ壊して、ローカルの勢力を打倒することで国を統一したのに、やっぱり家族が大事となってしまっては元も子もない。ゆえに、思想的に絶対に受け入れられなかった。

しかし、秦の統治はわずか15年で、あっという間に崩壊してしまう。なぜその法に従う必要があるのか。その正統性は何か。人が人を支配する正統性の論理が、法家には欠けていた。

人間は、一人ひとりが意志を持っている。納得できるとか、正しいと信じられるとか、そうした感情が行動に大きく影響する。権力だけでは納得感は生まれず、支配は長続きしない。人が進んで従うための権威づけの根拠が必要なのだ。

さて、すぐに崩壊してしまった統一国家は、どのようにして再び統一へと向かい、それを数百年に渡り維持していくのか。次回は秦から引き継ぎ、中華世界の統治システムを確立した漢について見ていこう。


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