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アテネとスパルタ-変化を生む組織と勝ち続ける組織

組織のリーダーに問う。
あなたは、「創造を生み出す組織」をつくりたいですか。それとも、「勝ち続ける組織」をつくりたいですか。

もちろん両立が望ましいだろう。というより、イノベーションが勝敗のカギを握る昨今、変化に対応し続け、新しいことを生み出した組織こそが、勝てる組織になるのではないか、という声が聞こえてきそうだ。

ただ、初めにどちらを指向するかによって、組織づくりのアプローチが大きく異なる側面もある。その違いを、古代ギリシアを代表するポリス、アテネとスパルタから考えてみたい。


スパルタという国

スパルタは、ある意味で最もギリシア的美意識を体現していた国家だ。すなわち、国家を統治し、戦闘のための体練を行い、そのための高貴な閑暇を持つことこそ、人間の理想的なあり方だと考えた。スパルタは、支配するエリート層と支配されるその他大勢を完全に区別し、その社会階層を固定化することで、それを実現した。

こうした国家観を決めたのは、前八世紀頃のリュクルゴスだと伝わっている。実在したのか伝説なのか謎の人物だが、スパルタ人にとっての絶対者であり、憲法のような存在である。リュクルゴスが国家の法を定めて以来、一度もそれを変えることはなかった。

征服者であるスパルタ人だけが市民権を持ち、彼らは国政と軍務のみを行う。被支配者層は、スパルタ人が必要なものをつくったり調達したりする「ペリオイコイ」と呼ばれる階層と、スパルタ所有の農奴である「ヘロット」と呼ばれる階層に分かれていた。人口比率は1:7:16だったと言われており、少数が多数を支配する構造になっている。これを維持し続けることだけがスパルタ人の関心であり、すべての行動基準となっていた。

スパルタ人の生き様

肉体一つで勝負していた世界において、長年にわたり少数が多数を押さえ続けるには、生半可な生き方は許されない。生まれた子供はすぐに適性試験を受け、肉体的に合格した者だけがスパルタ人として育つことを許される。七歳から親元を離れ集団生活を送り、肉体の鍛錬と武術の習得に明け暮れる。二十歳になると最終試験が待っている。一人で山野に放り出され、七日間生き延びなければならない。そして最後に、襲って殺したヘロットの首を持ち帰って初めて、スパルタの成人として認められた。まさに、リアル修羅の国。このような壮絶な経験を共有する者同士で、完全に平等で同質なフィジカルエリート集団が形成されていった。

女性に求められる生き様も凄まじい。健康な子供を産むために、女性も立派な体躯を持つよう訓練されていた。子を産むことは国家事業とみなされ、夫以外の市民と子をつくることさえあった。自分の子供が訓練や戦闘で死亡すれば、そのことを誇りとして祝福せねばならなかった。

スパルタの政体は王政だが、王の担当は戦闘の指揮権のみ。政治関与は許されていなかった。大きな権力を持っていたのは、5人で構成されるエフォロスと呼ばれる監督官たち。リュクルゴス以来の法が厳格に守られていることを監督し、政治、軍事、生活のすべてに介入した。

他国との交流は最小限で、ほぼ鎖国状態を保っていた。金貨や銀貨は流通しておらず、使うのは鉄貨のみ。食事は固く味のない肉とパンを地べたに座って食べた。領土の拡大にも関心がなく、無敵の戦闘力は被支配民を押さえつけるためだけに使われた。経済的な繁栄も文化的な豊かさも、強さを堕落させる害悪とみなされた。

価値観を自ら強化する構造

現代人から見ると、誰一人幸せそうに見えない、いったい何のためと訝しむような生き様だが、誰に強要されるわけでもなく、全部スパルタ人自身が望んで決めていたことだ。監督官だって選挙で市民から選ばれているのだ。

これは一昔前のエリートスポーツ校に似ている。少数のレギュラーが多数の部員の上に立ち、厳しい訓練の中で仲間意識が強化され、鋼鉄の団結力を誇る。強さと勝利こそが至高。こうした生き方自体が誇りであり、自分たちの存在価値となる。同質の思想にどっぷり漬かり生活を共にすることで、古来からのルールや価値観を自ら強化していく。

こうして揺るぎない最強軍団が形成された。ギリシア世界においてアテネと並ぶ二大勢力となったスパルタだが、後世に残る文化、芸術、学問のようなものは何一つ残すことはなかった。

アテネという国

アテネは、王政、貴族政、僭主政、民主政へと、変化を繰り返してきた歴史を持つ。その流れを簡単に見ていこう。

どこの世界でも見られる現象だが、前六世紀頃のアテネでは、既得権益を握る貴族と、同じ市民ではあるが非既得権益層である平民の格差が拡大し、借金漬けになる人々が増えていた。ここでソロンが登場。平民の債務をチャラにしつつ、市民を財産によって四等級に分け権利に差をつける改革を行った。これによって平民が債務奴隷化することを防ぎ、後の民主政を支える自由市民が保持された。

続いて現れたペイシストラトスは、平民の支持を背景にして非合法に権力を握った。貴族が所有していた土地を中小農民に分け与えたり、海外交易の振興政策を進めることにより、古い貴族勢力は力を失い、新しい中産階級が力をつけていった。スパルタでは少数のエリート戦士層のみが市民だが、アテネでは農民も商人も職人も立派に市民であり続けた。

その次にバトンタッチしたクレイステネスによって、アテネ民主政は完成する。血縁、地縁をバラバラにして、人為的に区分けした部族単位を導入。これで土着のパワーに左右されず、公平な選挙によって選ばれた市民が政治を行う仕組みが出来上がった。そこでは、全市民が参加できる「市民集会」が最高決定機関となった。

人・物・文化の交点に

この後に勃発するペルシア戦争にて、テミストクレス率いるアテネ海軍が、サラミスでペルシア艦隊を撃破。これによってアテネはエーゲ海の制海権を握る。元々アテネは商工業が盛んな海運国家だ。様々な物産、文化、人々が交じり合う都市となった。哲学者、劇作家、詩人、彫刻家、建築家など、ギリシア中の文化人がアテネを目指した。アテネには仕事の機会と他者からの刺激があふれていた。

異文化の交流、経済的余裕による雑務からの解放、寛容な宗教。三つの条件が揃うことで、人類史上空前の精神的覚醒が起こった。人々は本質的な思索や創作活動を自由に行い、それらが連鎖することで、文化的、学問的発展が次々に生まれていく。

ペリクレスの時代

前五世紀半ばのアテネ最盛期を、一世代後の歴史家トゥキディデスはこう評する。
「形は民主政体だが、実際はただ一人が統治していた時代。」

ペリクレスは30年以上にわたって選挙で選ばれ続けた。もちろんすべての政策は市民集会にて、市民の多数決で決定された。だからといって、ペリクレスは民衆に迎合することなく、巧みな演説と絶妙なバランス感覚によって、国家を正しく導いていった。

これは極めて高度なリーダーシップによるものだ。この時代のアテネ人は、独立精神が旺盛で言論の自由が完全に許されていた。そんな中で、自分が信じる方向に全体を誘導しながら、あくまで全市民の意志によって国策を決めていく。相反する矛盾をマネジメントするリーダーシップ。この高難度なリーダーシップを発揮した政治家をもう一人あげるならば、初代ローマ皇帝アウグストゥスが思い浮かぶ。このテーマは、また別の機会に考えてみたい。

ここまで見てきたアテネの特徴を挙げると、自ら変化し続けた歴史、人・物・文化のオープンな交流、自由で自立した市民団、変革を起こし集団を導いたリーダーの排出。民主政は、最も高難度なリーダーシップが求められる政体だと思う。ペリクレス後は、時に意見がまとまらず、時に感情に流され、アテネは道を誤っていく。

二者の結末

前431年、二つのポリスはついにぶつかる(ペロポネソス戦役)。結果はスパルタの勝利に終わる。アテネは民主政体を放棄させられ、ギリシアの覇権を完全に失った。ではスパルタの天下になったかと言えば、そうではなかった。スパルタ市民の減少により、少数エリートが多数を支配する社会構造が維持できなくなるのだ。両者ともに力を失い、やがてギリシア全体ごとフィリッポス二世率いるマケドニア、その後はローマ帝国に併呑されていった。

ローマ帝国時代も、アテネは文化・学芸の中心としての地位は保った。プラトンが始めた学園アカデメイアは、ヘレニズム時代からローマ帝国の時代まで、900年にもわたって学問の中心であり続けた。

まとめ

変化を繰り返し、新しい文化を生み出した組織と、強固な団結で勝ち続けた組織。その違いを生んだ発展の経緯、組織設計の背景となる思想、定着した価値観を見てきた。

あなたがリーダーとして目指したい組織の姿はどちらだろうか。今日スパルタを目指したいという人は稀だろうが、わりと企業の中にはスパルタ的価値観の断片を目にすることも多い。勝利至上主義、同質化した少数エリートによる組織運営、創業以来の文化やルールへの固着など。目指したい組織像と、組織づくりのアプローチが矛盾していないか。それぞれの国づくりの歴史が、振り返りの材料になればと思う。


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