#7 地域社会の課題・そして資源を考える
こんにちワンタン麺。マリエです。今回は『地域の資源と課題』について。地方移住1年未満なので、まだ深い考察はできておりませぬが書きます。
地方はリスクとポテンシャルが共存している
東京にいるとき、職場の人に
「地方はもう未来がないよ」
「青森にいくなんて(キャリア的に)もったいない」
「地方は人口も仕事も減っていくだけだから」
ということを言われた。
その人にとっては、地方に住むことが【リスク】なのだろう。実際、今私が住んでいる青森県は1983年以降、人口が減り続けている。
人が減ると、納税者が減り地域の税収が減る。税収が減ると行政サービスが拡充せず人が住みづらくなる。その結果さらに人が減るという負のループを辿る。
だからこそ、多くの地方公共団体が「移住促進」や「移住支援」に予算を投じている。手が打てるうちに打っておかないと、本当に取り返しがつかなくなるからだ。
地方の高齢化も問題だ。日本全体が高齢化率が高まるなか、地方はとりわけそのスピードが速い。人口の割り合いに対して税金で支える必要のある層が増えると、否応なく若い世代に負担がのしかかる。
人口が減り高齢化により税収が減れば、公共サービスに使える予算も減り、その結果多くの人にとって住みにくい場所に。日本全体が少子高齢化の壁にぶつかっているが、地方はとりわけはやく問題が露呈していく。
わたしが東京で感じていた有事のときのリスク
私は逆に、「東京にいることのリスク」を強く感じていた。それは、自分自身がつねに外部サービスを頼り、インフラを頼り、すでにあるサービスの中でしか暮らしていけないという焦りから生じていた。
3.11の東日本大震災のときも、新型コロナウィルス蔓延時も、私は東京にいた。さらなる有事がやってきたとき、自分がこの東京で暮らしを成り立たせていくのが難しいと思った。私には仕事で使えるスキルはあっても、「生きる」うえでのサバイバル力が皆無だからだ。
東京は食糧自給率が0%だ。食糧もエネルギーも、多くを他地域や諸外国に依存している。本当に有事のとき、インフラが途絶えたら?輸送機関や交通網が崩壊したら?これだけたくさんの人口が集まるエリアで、食糧難が起きたらどうなるのだろう。
私はせめて、食べ物だけでもその土地で採れるものを、作物を育てる知恵を持つ人がいる場所を、土が豊かな地域を、自分の住む場所にしたいと思った。
青森の十和田に移住して気づいた課題
東京一極集中は止まることなく、コロナ禍でも地方から東京に多くの人が転入している。
テレワークという場所にとらわれない働き方が台頭してきているとはいえ、日系企業の多くは通勤率を戻し、出社が必要な企業や仕事は数多くある。とくに職が限られる地方エリアでは、テレワークが浸透せず都心へ仕事を求めて移動する人も多い。仕事をするうえで東京が有利な面は多い。
仕事に限らず、私が実際に青森に移住をして、住んでみてわかった地方の課題とおぼしきものを挙げてみる。
公共交通機関が少ない(絶望的に少ない)
住居の選択肢が少ない(賃貸はとくに少ない)
除雪にかかる税金が大変(雪国は除雪費用に税金が多く使われる!)
病院激混み(これなんで?)
移動の問題、住まいの問題、雪の問題、一長一短とはいえ、やはり地方で暮らすのは無論東京の延長のようにはいかず、何かを諦めたり何かを妥協したりしながら暮らしを工夫していく必要がある。
が、こうやって課題が見えることで、私は自然と街のことを考えるようになった。東京ではスイッチ一つで解決したことも、手間をかけて工夫することで、暮らしの密度が濃くなる。
以前は他人事のように暮らしと地域が分断していた自分が、いま街の一部であることを実感しながら暮らしている。
地方にある人間の"生き方"のヒント
突然だが、バキバキにおすすめの本をご紹介したい。
世界一予約がとれないレストラン、カリフォルニアにある「シェパニーズ」を運営するアリス・ウォータース氏の著書「スローフード宣言」。
「ファストフード」の対義語として「スローフード」を使っているのだが(スローフードという言葉の定義は具体的にはより複雑なのだけど)、大量消費・大量生産の社会がもたらした人類への弊害をとてもわかりやすく解説してくれていて、読むほどに胸が痛く目を覚まさせるような本だ。
その中に、以下のような文章がある。
東京にいると、どこでもスーパー、コンビニ、カフェ、ファストフード店、牛丼や、うどん屋、のみたことある看板が並ぶ。それらを見ると、私たちはどこか「安心」した気持ちになる。人は知っているものに安心する。
しかし、街を都市化することによって、その地域独自の文化が消えていく。地方には、都市化した街には残っていないその土地に根ざした文化や風習がまだギリギリ残っている。唯一無二の、その地域にしかない文化や暮らしの知恵がある。現代社会で病みがちな多くの人にとって、ローカルこそが生きるヒントになると思う。(これについてはまた別途考察します)
手付かずの自然、地元のお母さんの味
地方には、その土地の風土にあった自然が生息し、生態系をつくっている。都心のように大規模な住宅街やビル側の建設がない分、まだその生態系が残っているエリアも多い。これは、圧倒的に国の宝だと思う。
コンビニやスーパーもあるけれど、地元のお母さんたちが受け継いできた郷土の味も残り続けている。食のグローバル化で多様な価値観が入るなか、その地に根ざした昔ながらの食の知恵やおいしさの継承は、さらにその希少性を増し、多くの人々を魅了していくだろう。
ただ、このような土地の魅力が、もともとその地域にいる人にとっては「当たり前」すぎて、特別視されず廃れていく可能性も高い。土地の魅力を客観的に第三者を交えて発信し、その価値を「地域の人」がより体感できる仕組みが必要だ。
私はこの自然や食、文化資源がものすごい地域のポテンシャルだと思っている。だって他では真似できない唯一無二の無力だもん。それを"どうやって活かすか"が今の地域に問われていると思う。
老後のくらしが最大の課題
ただ、個人的には地方の暮らしを堪能できるのは現役世代と呼ばれる20〜60歳が最適なんじゃないかと思う。つまり、20歳以下と60歳以降の人にとっては、地方暮らしの豊かさを享受するには足かせになることがあるんじゃないかと感じる。
具体的には
車がないと生活に不便
娯楽や教育の選択肢が少ない
たむろできる「街」がない
雪かきは命がけ
まず、悲しいことに、街全体が「車ありき」で作られていると感じることがある。もちろん、そのような状況に至るまでさまざまな変遷があるのは百も承知だが、何も知らない外からきた人間からすると、「あまりにも不親切なのでは?」と思ったことがある。
私は車の運転が(苦手だけど)できるので、青森の生活が謳歌できてたのしい。しかし、自分の能力的にも【老後の私】が車を安全に運転できると思えない。そうなれば、電車やバスを利用したいが、町内を走るバスは1日3本。しかも、謎に徒歩30分のところが、バスだと50分かかる(え
なかなか不思議な路線バスであり、使い勝手がいいとは言えない。先日、床屋さんを営んでいる90歳を超えたおばあちゃんに話しを聞いたところ、車は持っていないからすべて歩いていると。(ほんとかい)
たまにお客さんが車に乗せてくれたときにスーパーに行くと話していた。めちゃめちゃ共助やん。共助はすばらしい、すばらしいけどこれを美徳で終わらせてはいけない。
本来なら【公助】であっていいはずだ。公共交通機関はみんなの足だもん。車を運転できる世代がまだ割合的に多いから(もしくは高齢ドライバーバリバリ)、どうにか成り立っているのかもしれないけど、高齢ドライバーありきでまちづくりをするのは何か違う気がする。
調べたら【予約制乗合タクシー】があった。自分のエリアを探そうと思ったけど、地図が読めなくてぜんぜんわからない…これを活用している人も多いのだろうか。
この問題は高齢者だけでなく、車の免許が持てない若年層にも当てはまる。みんなチャリでめっちゃ移動すると聞いた。それはそれで素敵ね。
私は青森にきて、情報の少なさがとても快適で脳が疲れなくなった。東京では常に多角的に情報に曝されて、こちらが欲しくなくてもあっちこっちから新しい情報が降りかかってきて、脳みそがとても疲弊していた。
ただ、この情報量の快適さは、都心で暮らしていたから魅力に感じるわけであって、元から情報の少ないエリアで生まれ育っていたら、物足りなさを感じたり刺激を求めて外に出たくなる気持ちがわかる。
若い人にとっては、「たむろする街がない」のもどうなのだろうと思う。十和田の商店街はシャッター街だ。若い頃は学校でも家でもないどこかでウロウロしたい。そして、ちょっとやんちゃもしたいから、できれば街がいい。カラオケにいったり、ファストフードで茶をしばいて、うだうだと友達と過ごしたい。今どきの若者はどうやって放課後を過ごしているのだろう。たむろできる場所はありますか。
どうしよう、また書いていたらこんなに長文になってしまった。まだまだ更新したい記事がありますので、今日の考察はこの辺で。。まだまだ街のことをよくわかっていない私なので、こんな風にいろいろ考えながら、これからたくさん学んでいきます。よろしくお願いしマンモス
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