自分主体の偏った価値観

今回のタイトル【自分主体の偏った価値観】について、本来なら、前回の投稿の母との電話の中で話したいと思った内容である。元々の相談内容は、『母の料理の工夫や実体験』について。私が、最近になって『レシピ通りの料理』が『必ずしも正しい訳では無い』と気づいたからだ。実際のエピソードについては下記の通り。そして、料理だけでない視点から思う、私の持論を話したかった。しかし、なかなか全部を話しきれなかった部分があるので、今回ブログを通して発信したいと思った。

私はいつも料理を作る際、必ず『レシピに忠実』に作る努力をしている。2週間程前、彼のリクエストで、どて煮を作った。その為に必要な、こんにゃくと大根も購入した。検索した『レシピ通り』に材料を使用して、どちらとも余ってしまった。その為、どちら共を消費し、且つ、家にある物で作れるレシピを検索した。そして私は、醤油と鰹節で味付けした炒め物を作り、昼食として2人で食べた。ただ、その時に彼から言われたのが「この具材なら、味噌で味付け出来んかったかー?」という疑問の声だった。すると私は「だってレシピにあったんだもん。」と即答し、その時の会話はそれ以上しなかった。ところがその夜、彼の実家で『レシピ通りに作る私』について話題になった。彼と彼の両親と私。それぞれに思ってることが異なって、大変面白かった。その上で結果的に私が学んだことは『レシピ通りに作ったからと言って、食べる人の好みとは一致しない』ということ。基本的に、『思った事は具体的に発言』する彼なので、私も『私の感覚を発言』したいと思っている。だからこそ、彼の好みや苦手な味や食感を【具体的に知る】ことが出来るのだ。元々分かっている事に関しては、検索の時点で除外することも多々ある。しかし、そんな話題で学んだ後にも関わらず、私はまた『レシピ通り』に料理して失敗した。それは、みじん切りの玉ねぎの炒め方について。彼は、玉ねぎのシャキッとした食感が苦手なのだ。コロッケを作って食べた時、「玉ねぎ、生っぽくない?」と言われた。そこで私はハッとした。きっと、本来の表現なら『あめ色』になるまで炒めるべきだった。しかし、『レシピ通り』に『透明になるまで』の指示を鵜呑みにして炒めていたことを思い出した。それを彼に言おうと思った時、再びハッとして『レシピ通り』に作った自分を反省した。

上記の様な『レシピ通り』に作ったが故の失敗が重なった私。『レシピ通りに作ること』よりも、それを実際に食べる『相手を考えて工夫すること』の考え方について、初めて気付かされた。そしてまた今回も、自分の人生経験において、大切なことを改めて学んだと思っている。

それは、学校で習う『教科書』や、家族の中の『親の教え、家族ルール』に加え、代々受け継がれるような『固定概念』等々。以前の私のような【自分主体の偏った考え方】について。もっと広い視野で考えた時、私は、『自分が過去20数年間、どれだけ狭い視野の中でしか生きられなかったのか』と思い知った。関わる相手や環境なんてものは、【自分の意思ある選択】がもちろん大切な事だと思うが、選択の有無を言わせてもらえない状況も多々あるだろう。だから、本当に大切なのは『そんな中でも、どのようにして自分を保って生きるのか』ということではないかと考える。誰だって【自分なりの価値観】がきっとあると思う。ただ、【自分なりの価値観】の概念が強すぎると、私の場合、自分を客観的に見た時に【自分主体の偏った価値観】として思うことがある。だって、あくまでも【広い世界の中のほんの一部】に過ぎないということを、私は意識するようになった。また、【多種多様な人間と環境】なんてものも、考えるまでもなく当たり前のこと。だから『これが絶対正しい!!間違ってる!!』なんて言えることは、よっぽどありえない!と私は思う。大概のことは、『Aから見たら〇〇だけど、Bから見たら△△だ』みたいな感覚。前者の様に『これが絶対正しい!!間違ってる!!』と思えば思う程、自分と異なる価値観に遭遇した時、結果的に自分が苦しくなる。以前にも同じことを気づいたはずなのに、私はまた、似たような経験をして再び学んでいる。関わる相手や環境に対して、『必ずしも同じ自分と同じ価値観で成り立つ訳が無い』ということを。

極論は【自分が生きやすく、納得する】ことが出来れば、基本的には悩まずに生きられる気がしている。『自分が大切にしたいと思う相手も環境も自分で選ぶ』訳だし、そんな相手と環境だからこそ、上手くいかないことがあれば、その都度学んで乗り越える。自分の事も、自分が選んだ相手と環境も含めて考えた時、『今までとは違った自分の価値観に出会う』ことで成長に繋がると、私は日々実感している。何故なら私は、そうやって大切な人達に【自ら気付かされること】が本当に沢山あったからだ。その都度『今までとは違った自分の価値観』に出会ってきた。だからこそ、間違いなく充実した『今』がある。
きっと少なからず、【m__lovemi】という1人の人間に対して、周りの『大切な人達が無理ない』ように、『沢山の大切な時間を共有』してきた結果である。【m__lovemi】という人間は、この世でたった1人の私。そして、人間皆誰だって『自分は1人』しか存在しない。それぞれの人間への関わり方には、きっと『正解なんてないし、当たり前だけど皆違う』はず。だから、誰もが習う学校の『教科書』みたいな【明確な答え】などありえない!というのが、私の持論になる。逆に、今回の料理の例え話の様に、『本来のレシピをベースに、相手好みにアレンジする』みたいなことが、『良好な人間関係には不可欠』なのかなと思ったりする。あくまで【自分の価値観をベース】にしつつ、『相手の価値観を尊重して上手くアレンジ』する。それが、前回の投稿で友達が言っていたような『あえて共感して流す』とか『自分の言葉で上手く濁す』ことなのかもしれない。

私は間違いなく、【『教科書』や『レシピ』通りに忠実に生きる】ことが、『大変窮屈で生きにくい』と実感した。かと言って、【相手の存在もその中に当て嵌めて考えしまう】ことに対しても、全く同じことが言える。と私は改めて認識した。とにかく今後の私は、『教科書』や『レシピ』含め、【自分主体の偏った価値観】に対して『簡単に左右されない自分』を目指して生きたい。今の自分よりも必ず成長して、『自他ともに自由な生き方や人間関係を大切に生きたい』気持ちである。

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