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【ショートショート】 決断は深夜のバスタブで

 私にはずっと気にかかっていることがある。ずっと気にしてはいるけれど、自分としっかり向き合って考える気になかなかなれなくて、忙しさを口実に、決断を後回しにして「今」ここまできてしまった。
 いつもそうだ、大事なことほど悩んで悩んで後回しにして、ギリギリに適当に決めてしまう。本当によくない、とはわかっているのだけど。
 「はあ」
 一人小さくため息をつきながら、ロッカールームに向かった。

 人生は今が一番若い。
よく聞く言葉だし、その通りだと思う。時は万人に共通して同じだけ、同じように流れていく不可逆なもので、刻一刻と「今」は「過去」になっていく。
 そんな一般論を、頭で十分わかっていても、一歩がなかなか踏み出せないのは、多分「今」という現状に多少なり満足している部分があるからだ。不満だけがあるわけではない。それでもどこか、何か、もっとしっくりくる場所があるのではないか…。

 自分のロッカーの前で制服を脱ぎ、私服に着替えながら今日の出来事を振り返る。
 今日、コピー機を使うために印刷室に入ろうとしたとき、私は急いで出て行く佐藤さんとすれ違った。その瞬間は何も思わなかったのだけど、いざコピー機を使おうとしたとき、タッチパネルに「エラー」の文字が見えて、全てを理解した。…ああ、エラーを起こして手に負えなくなって、そのままにして去ったから彼女はあんなに急いでいたのだな。やむをえず、担当部署に連絡を入れて修理をしてもらうことになった。もちろん、連絡を入れたのは私。担当部署の人に、迷惑そうな返事をされて何だかモヤモヤした気持ちになったのも、私。

 思い出しただけで、心が粗い紙やすりで擦られたように、ざらりとした。なんて思っていたら、佐藤さんがロッカールームにやってきた。
「お疲れ様ですー」
「あ、お疲れ様です…」
 いつもと変わった様子はなく、何もこちらを気にしたような素振りは見えない。さっさと着替えて、私より先にロッカールームを「では失礼しますー」と出ていった。…心がまた、ざらりとした。

 帰りの電車は、普段より少し遅くなったせいで混んでいた。ぎゅうぎゅう詰めというわけでは無いが、座る席は空いていなかったので最寄り駅まで立って過ごした。
 途中、電車が大きく揺れ、私の隣にいたおばさんがぐらりとよろめいて私にぶつかった。その衝撃で私もよろめいて、あっと思ったときには隣のおじさんの足を踏んでいた。
「…チッ」
 不機嫌そうに、おじさんは舌打ちをして私を睨む。私にぶつかったおばさんは、素知らぬ顔をして窓の外を見ていた。すみません、と謝りつつ…また、心がざらりと擦られた気がした。

 最寄り駅に着いて、ふとスマホを見ると友人から連絡が来ていた。「ねえ、聞いてよ!彼氏がまたー」という書き出しで始まる愚痴がつらつら続いているのが目に入った。
 私はもう知っている。これに真剣に応じたところで、彼女はまた似たような愚痴を送ってくる。多分愚痴をただ聞いて欲しいだけなのだとわかったのは、3回ほど似たようなことを繰り返してからだった。それなのであればと、そっとスマホをポケットに入れる。今の私には、「ただ聞く」だけの元気がない。…ヴゥン、ヴゥン…とその後も数回、スマホが震えるのを感じた。その度に、心がざらりざらりと擦られていく。

 コンビニに寄り道をして、自宅に帰る。部屋に入り、靴を脱ぎ散らかして鞄を床に投げて、間接照明だけを付けて、何もかも放り出すようにソファに座る。
 深呼吸をして、ざらざらになった心をそっと眺めながら、コンビニで買ったビールを飲み、ラジオをつけてベランダを見る。月明かりが、部屋の中からでも見える…さては今日は満月だったか。さっきまで外にいたと言うのに、帰り道はざらざらした心を抱えるのに精一杯で、全く気が付かなかったな。

 ひと通り晩酌をして、お腹を満たすと少しだけ気持ちに余裕が出てきて、お風呂に入る気力が湧いてくる頃には夜中の1時を回っていた。明日は休みだ、少しくらいの夜更かしたまには良しとする!と、自分に許可を出した。

 バスタブにお湯を張りながら、寝間着を用意してざっくりメイクを落とし、湯気の立ち込めるお風呂場に踏み込む。

 さっとシャワーを浴びて、あたたかいバスタブに肩までしっかりと浸かる。昔から、考え事はお風呂場でするのが癖だった。しんとした、自分だけの空間。自分のため息までよく響く、このだいすきな空間。ざらざらの心を、そっとあたため始める。

「ふう」
 一人小さくため息をつきながら、考え事の入り口で呟いた。

「…決断は深夜のバスタブで」


(1875文字)


=自分用メモ=
これは完全にタイトル先行の作品。どうしても思いついて、使ってみたくなったワンフレーズを、オチとタイトルに使う前提で間を埋めることにしてみた。
お風呂場で考え事をするのは、私自身の癖でもある。たまに鼻歌なんて歌いながら、湯船に浸かってあれやこれやを考える時間は楽しくて癒しの時間である!

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