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【ショートショート】 おじいさんの赤いスカーフ

 その日は朝からどんよりと曇っていて、母さんに言われて渋々折り畳み傘を持ってきた。

 正確にいうと、「ツバメが低く飛んでいるから持っていきなさい」と言う母さんの言葉を、面倒くさいと無視していた。
 そうしたら、「あんたは本当に言うことを聞かないね」と、ランドセルの隙間に折り畳み傘を差し込むついでに、ゲンコツをおまけでつけられた。暴力反対。

 僕の日常なんて、そんなもんである。
 ゲンコツのあたりどころが悪くて、午後になってもじんわり痛い。これはきっとたんこぶになっている…。

 まあ僕が悪い気がするから、児童虐待なんて言わないでおく。そう言う言葉は、百パーセント相手が悪いときに使った方が、正しい気がするからね。
 僕はそれなりに大人な対応ができる。

 とはいえ、帰りの会を終えて、放課後になり下校時間になっても、曇りではあるけれど雨は降りそうになかった。

 なんだ、これじゃあ朝のゲンコツは殴られ損じゃないか。そんなふうに思うと、何となくむしゃくしゃしてくる。

 僕は右手で、小さなたんこぶをそっと撫でながら、ふと昨夜のことを思い出した。

 あれは、不意に手の爪が伸びていることに気がついた僕が、それを切ろうとしたときのこと。

 いつもの救急箱から爪切りを出して、リビングの床に座ろうとしたら、そのときも母さんが「こら。夜に爪を切ると、親の死に目に会えなくなるよ!」と脅かしてきた。

 前にも言ったでしょう、明るい昼間に切りなさいって。昼間は何をしてたの?ゲームばっかりして、本当にあんたは。ほら、急ぐなら母さんが切ってあげるから──。

 放っておいたら、あと何分続くかわからない小言に舌打ちをして、その態度にまた小言を喰らうというミスを犯しながら、僕は一旦そこで爪を切ることは諦めたのだ。

 この僕の爪と、父さんや母さんの死に目に会えないことと、一体何の関係があるのかまるで理解できないけれど、そう言われて「別にいいよ」と言うほど、僕は僕の父さんや母さんが嫌いではなかった。

 曇り空を気にしながら、廊下に出る。
 今日はいつも一緒に帰っているメンバーが塾とか習い事だとかで、バラバラに帰る日なので、一人で好きなように帰るつもりでいる。

「とりあえず、帰ったらすぐに爪を切ろう……」

 思い出すと一気に気になり始めた爪を、恨めしく触りながら独り言を口にして、僕は下足室に向かった。

▪︎

 外に出ると、雨はやはり降っていなかった。
 ただ、午前中に少しは降ったと見えて、道路にはその湿った跡が見える。

 母さんは嘘をついたわけではなかったわけだ。……ふん、折り畳み傘はなくても困らなかったけどな。

 小さく悪態を吐きつつ、てくてくといつもの通学路を行く。

 途中、橋を渡って細い川の横を進むのだが、僕は河原に降りてみることにした。

 雨上がりの河原は、全てがしっとりと濡れていて、緑の匂いがぐんと濃くなる。僕はその匂いが結構好きだから、ゆっくり鼻で息をしながら歩いていく。

 途中にある、通学路へと戻ることになる石段が、思ったより白く乾いていたので、僕は少しだけ座ってみた。

 昼間の雨は、本当に少しだけ降った程度のもので、川の勢いは対して普段と変わらない。

 遠くに見える花壇を見て、小さい頃から、「大人がいないときには、あの花壇より先に行ってはいけない」と強く言われた続けていることを思い出す。

 その先にはすぐ川がある。わかりきった危ないことを、わざわざこの僕がするもんかとブツブツ言いながら、ふうと息を吐いたときのことだった。

「おや、寄り道ですね」
「……っ」

 突然、背後から声をかけられて、驚きすぎた僕は声が出なかった。
 思わず振り返ると、そこには紺のスーツを着て、首元にスカーフをした品の良さそうなおじいさんがいた。

 こんな河原で見るにはあまりに場違いな格好なものだから、僕は思わずじろじろとその姿を見てしまう。

「そろそろ帰った方がいいですよ、カエルが鳴き始めているから、また雨が降り始めます」

 穏やかな笑顔を浮かべ、おじいさんは僕に優しくそう言った。

「何なんですか、そのカエルがどうとかって」

 思ったことがすぐに口に出てしまうところがある僕は、思わずそう聞く。気にした様子もなく、おじいさんは返事をした。

「迷信の一つでしょうか。黒猫が目の前を横切ると不吉、みたいなことを、聞いたことはないですか」
「メイシン……」

「世の中には、昔の人の知恵も含めて、いろいろな言い伝えが迷信と混ざって今に残っているんですよ」

 そのままおじいさんは、僕の隣にどっこいしょと腰をおろして話し始めた。

 彼が言うには、科学的な根拠が多少あるようなものも含め、道理に合わないけれども信じられていることが、この世界にはたくさんあるのだという。

「夜に爪を切るのがどうこうって言うのも、そのメイシンというものですか」

 僕はおじいさんの話しを聞いて、昨夜のことをまた思い出したのでそう聞いた。

「そうですね。つめの音から、自分の世を詰める、、、、、ことで、自分が先に死んでしまう。つまり、親の死に目に会えなくなるという意味を持たせたのでしょうか。事実で言うと、昔は今ほど夜が明るくなかったから、足を怪我しないように、そんな迷信が生まれたのかもしれません」

 おじいさんはゆっくりと、それでいてはっきり僕に聞こえる声でそう語る。

 僕はまだまだ子どもだけれど、変に子ども扱いをすることなく、真剣に取り合ってくれるこの人の言葉を、そっと信頼することにした。

「愛のある迷信です。それを、言葉のままに素直に受け取ることも愛でしょうし、きみのように疑問を持って、迷信をほぐして理解することも愛でしょう」

 わかるような、わからないような……僕は少し混乱して頭を掻く。

「いて!」

 無意識に掻いたところに、たんこぶがあったものだから、思わず声が出てしまう。そんな僕を見て、ふふとおじいさんは笑い、そっと言葉を続けた。

「迷信でも、嘘でも出まかせでも、その相手を大切に想っての言葉なら、それは真実や事実に等しい意味を持つと思いますよ」

 さて、そろそろ本当に雨がきます。私も少しだけ仕事をしなくては、と言いながらおじいさんは立ち上がる。

 綺麗な紺のジャケットやスーツのズボンを手で払って、そっとスカーフを整える。

 僕も、素直にそれに倣って立ち上がり、お礼を言って帰路に着くことにする。

 帰ったら、雨は降らなかったけど傘ありがとうくらい、母さんに言ってもいいかな。

 そんなことを思いながら、おじいさんがつけていた、真っ赤なスカーフを思い出していた。


(2683文字)


=自分用メモ=
私は鳥類の中では、何よりもツバメが好きだ。そのため、いつか書きたいと思っていたツバメに関するショートショート。
気が向いたので、下書きで溜めていたものを一気に書き上げてみた。
作品の最後に、フリー素材でも探してツバメの画像を貼ろうかと思ったけど、蛇足になる気がしてやめた。笑

街中で巣をかけている、その小さな命を見ると無事に子が巣立つことを願わずにはいられない。
今年は旅先も含めて、たくさんのツバメをみることができてハッピーだったなあ!

なんと可愛いおくち!


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