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【ショートショート】 星のクジラ 【100作目】

 そのクジラは、太陽の明かりも届かないくらい、深い海をゆっくり泳いでいた。

 いつだって泳ぎながら、仲間たちとたくさん話をして、これまでの時間で知り得た多くの歌を歌う。

 寄せては返す波のように、ひたすらに繰り返される日々の中で、誰かから聞いたことがある。

 いろんな命が交差する広い海の中には、それぞれが「存在しやすい場所」というものがあるらしい。

 出会うべき命たちが、出会うべきときに出会えるように、神様が緻密に計算して配置をしているのだという。

 クジラはそういった話を、海で響く音楽から知った。

 彼は幼い頃に親を亡くしたが、独り立ちするまでは仲間に守られ生きてきた。

 成長して群を離れてからも、仲間たちの声が遠く響く海はいつもそこにあり、彼を独りにすることはなかった。

 仲間はみんな、歌うように話す。「私たちクジラは、そういう生き物なのだ」と難しい旋律を歌い上げては、それを聞いて覚えて、また歌い繋いでいく。

 暗い夜でも、海面から顔を出せば大抵は月があるし、一節歌えばどこかから続きが聞こえる。

 孤独を知らないクジラたちは、夜な夜な歌を紡ぎ続ける。

 ある夜は、空を飛ぶ鳥について。
 またある夜は、美味しい食べ物のある潮の流れについて。

 大きなイカの話、遥か彼方にいる友人に届く声の響かせ方、少しでも深く海に潜る方法、嵐の夜の過ごし方。

 クジラたちのやり取りは終わることなく、優しい夜は無限に繰り返される──。

 それら際限ない話題の中で、このところ彼がいっとう思い返しているのは、「星のクジラ」の話だった。

 ある夜、偶然近くを通りがかったクジラが「星のクジラ」について聞かせてくれた。

 彼女が言うには、満月の夜に星の明かりを一つずつ集めていくと、百個目が集まったときに「星のクジラ」となって、願いが一つ叶えられるのだという。

「…星の明かりって、どこにあるの」
「よく見てよ。その顔の横にもその隣にも、たくさんキラキラしているでしょう」
「本当だ。でも……百個ってどれくらい?」
「どれくらいだろうね。今この夜空にある分くらいかしら」

 彼女が見上げるのに釣られて、彼も空を見上げる。
 月はずいぶん低くなり、よく晴れているその空には無数の星が瞬いていた。

 実のところ、クジラは百個という数が、果たしてどれほどのものなのかあまりわかっていなかった。

 よく揺れる波間から、果てしなく広がる空の星を数えることはなかなか難しかったからだ。
 彼がこれまで生きた時間の中で、百という数は数えたこともないくらいの大きな数字であった。

「集めてみる?私も手伝うよ」
「でも、僕いま願うことなんて何もないよ」
「集めてから決めたらいいじゃない」

 ククッと笑う彼女を見て、クジラは「なるほど」と笑った。

 それから満月の夜が来るたびに、二頭のクジラは海面の星影を集めることにした。

 クジラの日々はこれまで何もかも満ち足りていて、本当に願うことなど何もなかった。

 大きな尾で波を起こし、大きな口で食べ物を食べ、歌うように生きる。好きなときに起きて、好きなだけ眠り、どこまでも好きなように、続く限りの海を泳ぐ。

 そこに突然現れたもう一頭のクジラと、夜な夜な小声でも話せる距離に誰かがいるという夜。
 彼は、彼女に出会うことができたという、神様の緻密な計算の正しさに感謝した。

 そしてだんだんと、自分は孤独を知らなかったのではなく、誰かが隣にいるという幸福を知ったのだと自覚し始めた。

 すると、今あるこの夜を手放すことを恐れるようになる。

 彼女より「星のクジラ」の話を聞いてから、確かに彼の胸の中には、星のように光るものが生まれた。
 必然的に、彼の頭の中を占めるのはその話になったのである。

 誰にも邪魔されることなく、ただひたすら、二頭は月夜の海で星と戯れる。

 海面に落ちた星の光に向かって、大きな口を開けて飛び込んでは、きらめく波間に紛れて遊ぶ。

 満月の夜が、必ずしも晴れているわけではない。

 二頭は数え切れないほどの夜を共に泳ぎ、少しずつ星の明かりを集め続けた。

 そしてついに百個集まるかというとき、彼女は彼にお願いすることは決まったのかと問うた。

「もちろん、決まった」
「それはよかった」
「僕は、これから先も君が一緒にいてくれたら良い。それ以上の願いはないよ」

 百個目の星の明かりを見つめて、そういう彼に、煌々と月光が降り注ぐ。

 それを聞いた彼女は、「星のクジラになると願いが叶うという話は、本当だったのね」と笑った。

 そのまま二頭は、星のように煌めきながら夜の海より舞い上がり、新しい明かりの一つとして夜空に光る星になった。


(1891文字)

=自分用メモ=
好きなものをめいっぱい詰め込んで、誰も傷つくことのない優しい夜の話を書きたかった。また、記念すべき百作目ということで「100」という数字をキーワードの一つに盛り込みつつ、物語のような話しを書いてみた。

乱筆をお許しください。


これから先のことなんて、誰にも何もわからない。それでも、100作書き上げたという事実は揺らぐことがない。

座礁したり、闇に迷うこともあるだろうけれど、漕ぎ出した船を降りることなく、ここからもゆっくりそして着実に、泳ぎ続けていければと思う。

感想等は「こちら」から。どんなお言葉も、ありがたく読ませていただいています。

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