【日記】平穏と退屈の間
ありがたいことに、本日も私は私の平穏な日常を生きている。
平穏って、油断すると退屈になるんだよね。
非常にわがままで身勝手な人間だこと。
教師をしていたときは、平穏なんてあるようでなかったし、たとえ「今日は何もない平穏な日だなあ」というときでも、決して退屈ではなかったなあ。
そんなことに、ふと思いを馳せる。
毎日、何かがある。
同じ日なんて一日もない。
それはどの仕事でもどんな生き方でも、絶対に同じはずなのだけれど、あの「学校」という空間は私にとって本当に特別だった。
毎日が刺激の連続で、良くも悪くも本当にずっと走り回っていた。
ああ、ときどきこういう「懐古スイッチ」が入る。
朝起きて、支度をして駅に向かう。
もうその辺りですでに、私は「先生」の顔をしていたと思う。どこで誰が見ているか解らないという緊張感。
これは教壇を降りてもしばらく私を取り巻いていたし、何なら思いきって大阪を離れるまで拭いきれない感覚だった。
電車乗ると、同じ車両に見慣れた制服。
あれは何部の子だなとか、何年生かなとか、無意識に見る。
見られているし、見てもいたわけで。
学校に着く前、もはや家を出たらすでに体感としては「職場」に等しかった。大袈裟な人間。
本を読んだり、窓の外を見たり、そういう挙動も彼らはよく見ていた。
「先生今日、電車で本読んでたな」
「先生、電車で何聴いてたん」
何か話したいことがある子らは、そういう「日常」を会話のきっかけにしてくることが多かった。
今日はこれを読んでいたよ、昨日YouTubeで知った音楽を聴いていたよと、会話の流れに乗ると、するすると本題が見えてくる。
そういう日々の繰り返しが、あの頃の「平穏」だった。
ああ、本当に毎日退屈なことのない時間だったな。
「朝」というキーワードだけでも、今なお私はこれだけの思い出が語れる。
夏のこの時期は、進路に関する話がよく動いたから、思い出も多い。
夏休み前の懇談で、進学なり就職なりのという人生の決断を毎年重ねていく。
あのときの私の、考えうる限り全てを織り交ぜた助言は、いろんな立場からのギリギリの判断は、都度精一杯だった指導は、果たして彼らの人生にどれほどの影響を与えたのだろう。
何も、本当に何も大したことはしてやれなくて、それは間違いなく「彼らの人生は、彼らのものであるから」に他ならなくて。
私にできることなんて、本当に限られていて。
それでも、兎にも角にも、何かどこか少しでも明るい未来へ繋がる道を彼らにと、答えのない道を模索する日々。
──すごい仕事だったなと、本当に思う。
そんないろいろに思いを馳せつつ、私は今の私の「平穏」と「退屈」の間を、ゆらゆらと歩いている。
今日も一日、お疲れさまでした。
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