【エッセイ】抗うな、しなやかに生きよ
自分でいうのも何だか気恥ずかしいが、私は基本的に「明るくて陽気で元気な人間」である。
心配性ではあるけれど、日々起きる様々なことを、ポジティブに受け止めて、自分なりに消化し向き合うことは、そんなに難しいことではない。
これまでの人生、幾度となくそうやって日々を乗り越えてきた。
起きる出来事には、絶対に意味があると思う。…ことにしている。
良いことにも悪いことにも、必ず理由がある。
そう思うことで、少々の理不尽なことや不満なことも、消化してきた。消化、できた。
何事も意味を与えるのは、他でもない「自分」だ。
大袈裟でも何でもなく、今の私にとって「自分を含む誰かが死ぬこと以外は、大した問題ではない」とすら言える。
もういいよ、何でもいい。
何が起きても、良い。
転んでもいいし、間違えてもいい。
失敗なんて知ったこっちゃない。
そこにあなたがいるなら、それで良い。
そんな気持ちが、常に心の深くで私を支える。
「許容」が深く根付いていると自覚する。
もし不安がっている人が近くにいたら、一人でいるより気持ちがしゃんとする。
それは、恐らく自分より酔っ払っている人がいると、酔いがさめるような感覚に近い。
間違いなく自分も不安なのだが、自分より不安がって嘆いている人がいると、謎に「しっかり者スイッチ」のようなものが入って「自分が強くなる」のを感じるのだ。
私が泣いてどうする。しっかりせねば。
私が焦ってどうする。どっしり構えねば。
とりあえず、とりあえず…。
自我を持つ頃には「姉」だった私は、多分そういう性分が染み付いているのだと思うし、私はそんな自分をそれなりに信用している。
とりあえず、やればできる子なのだ。
そういうことを繰り返して、私は「私を強く保つ」コツを会得してきた。そんな自分が嫌いではない。
頼りになる自分は、むしろ好きだし、人に頼られることも好きだ。
併せて、頼ってもらってもどうしようもないことがあるということも、私はこれまでの人生で学んできた。
無い袖は振れない。
得手不得手もある。
できないことは、できない。
「自分は万能ではない」という、至極当たり前なことをしっかり認識するところから、自分を許容することは始まると思う。
無知の知に、近い。
この考え方ができるようになって、随分と生きやすくなった。
できないことがあるのは当たり前なのだから、できないことそのものに落ち込む必要がなくなった。
「自分」にできないことは「誰か」ができること。
だから頼るの。ありがとうって助けてもらう。
「自分」にできることは「誰か」ができないこと。
だから助けるの。良いよって頼ってもらう。
それでいいじゃない、何が問題なの。
上手に助け合って、相互に支え合えばいい。
私は対人間関係において、心の底からそう思う。
老若男女、関係なく!
事実教壇に立っていたとき、できないことはできないと生徒に明言して、助けてもらって乗り越えたことがある。
もちろんその限りではないけれど、自分にできることにだけ集中することは悪いことでない。
私は、私にできることを全力でするだけなの。
隣で共に闘う「誰か」を信頼して、その人に背を任せるということの大切さも、同時に学んできたように思う。…まだまだ上手くはできないけれども。
この世で起きた出来事は、万事この世でカタがつくようになっている。
抗うなかれ、時にそれは無駄なことなのだ。
起きたことを受け入れよ。
しなやかにあれ、風に折れぬ柳を目指せ。
芯を折らず風に吹かれる余裕を。
そんな生き方をこれからもしていきたいなと、取り留めのない考え事をしながら、昨日よりぬるい夜風の中でそっと深呼吸をした。
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