【日記】今年のお盆
お盆休みということで、帰省だ何だと少し自宅を離れてみる。
朝と呼べる時間にきちんと起きて、しっかりお米の朝ごはんを食べるところから始まり、普段こんなに人と話すことはないなと思うくらい、いろんな人とたくさん話す。
ついこの前まで、本当に言葉そのままに「一日中、誰かと話すような日々」を送っていたのに、今やもうその時間を懐かしむまでになった。
こうして、人生は流れていくのだなと、いちいちしみじみしてしまう。
いつか、こんなことを思う「今日」も、懐かしく思い出す日が来るのだろうな。
いろんな人に会った中、人生の少し先を生きている人に、非常にいい生き方をしている人を見つけられて勝手に救われたような気持ちになった。
いくつになっても趣味を見つけて、一緒に暮らす人を尊重して生きている人たちで、久々に会えてとても嬉しかった。
ポジティブな気持ちをたくさん受け取れて、ものすごく心が元気になった。
純粋に「ああこんなふうに生きられるのなら、老いることも怖くないかもしれない」と思えた。
ここ最近、地震や事故やと悲しい情報に飲まれ気味で、生きることに絶望しがちだったから、ホッとした。
私はどこまでも大袈裟で、厄介な人間なのである。
「いい生き方をしている人だな」と思える人を見つけられると、本当に救われる。
私もそんなふうにやってみようと、気持ちが前向きになる。
そんな人たちに囲まれて過ごす時間が、楽しくないわけがない。
移動のストレスか何かで、直前にひどく痛かったお腹は、帰る頃にはすっかり治っていた。
私なんて、まあそんなもんである。
伝えたいことを正しく伝えられる優しい物の言い方とは、どんなものか。
相手に「聴いている」ことが伝わる聞き方とは、どんなものか。
久しぶりにいろんな人と話すと、そんなコミュニケーションの基本を見つめ直すような時間を得られる。
ある夜、尊敬できる人と一時間以上話し込んだ。
「私は話すことが得意ではないから、黙っていることが多いかもしれないけど、それは決してあなたと話すことが楽しくないからではない」
そんなことを真っ直ぐ語ってくれる人に対して、私が悪く思うわけがない。
むしろ、私はいろいろ話しすぎるから…!と恐縮した。
コミュニケーションの取り方は、言葉を発することが全てではない。
話し相手の目を見たり、相手の言葉をゆっくりと待ったり。
沈黙が苦にならない関係なんて、本当に素敵だ。
私はおしゃべりだけれど、その穏やかな沈黙の時間の良さもよく知っている。
たくさん話しをしてたくさん笑って、良い時間を過ごせたなと、思い返すだけで胸があたたかくなる。
あの時間も、間違いなくいつか懐かしく思い出すことだろう。
また、「あなたがいると、場が明るくなる」というような言葉ももらって、単純な私はものすごく嬉しくなった。
そんなの…関西人冥利に尽きる…!(そうじゃない)
見た目を褒められるのとは、わけが違う。
人としての内面を褒められた気がして、嬉しがりは本当に嬉しくなった。
周囲の人たちのおかげで、総じて心身ともにとても良いお盆を過ごせている。
ありがたい限りである。
明日は、何をしようかなあ……。
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