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エッセイ|急にやってくる言葉たち

数日前に関東から地方都市へ引っ越した。
そこはわたしの田舎で、住むのは実に10年ぶりだ。最後に住んでいたのは大学生のころで、結婚し母となり、夫の仕事の都合で家族とともに帰ってきた。


こっちの人はすぐ子どもに触る。
まだ引っ越してきて数日しか経たないのに、2歳になる娘は毎日通りがかりの大人たちに「可愛いね」「元気ね」「お母さんと手を繋いでえらいね」と頭を撫でられ、ときにはぷくぷくほっぺをつつかれる。
誰もがピョコピョコと歩き回る小さな娘に慈愛の眼差しを向けている。そこにはなにも不審な動きはなく、単純に温かみある関わりに違いないのだが、これまで住んでいた都会ではまずないことで多少身構えた。
他人の子どもに触れること自体がもうかなりセンシティブな問題になっているということを、この田舎に住むひとたちは知らない。


新居に向かう地下鉄の中、娘は眠たくなり指しゃぶりを始めた。
それを見るやいなや、ぐいっとわたしの腕を掴み、「寝る前に肌を1週間当ててごらん。そしたらきっぱり止めるから!」と育児アドバイス(?)をしてくださるご老人に捕まった。出会った。

その開口一番の言葉ではあまり意図を理解できなかったが、勝手に続いていく話を聞けば、どうやら「寝る前、母親が子どもと直接皮膚が触れ合うように抱っこすれば、指しゃぶりは1週間でピタッと収まるよ!」ということだった。
「なるほどですね……」と、変な相槌でおばあさんの話を聞く。娘はわたしの胸ですやすやと寝息を立てて眠り始めた。

おばあさんの持論は続く。
結果として、かなり頭を悩ませる時間になってしまった。
職業柄、「乳幼児の指しゃぶりは食事に向けた準備であったり、歯が生えそうでムズムズするからしていたり、あるいは指先を舐めることで副交感神経を刺激し……(長たらしいので割愛)」などと医学的根拠に基づいた説明を返したくなる。
「指しゃぶり」を愛着形成が不全である証拠としていた時代もあるが、原因は多岐に渡るし、むしろ成長発達に必要な過程である場合も多い。
3歳までは無理に止めさせる必要はないというのが、今の医学の判断だ。(よくカラシや苦い液体を指に塗って止めさせようとするひとがいるが、子どもに不要なストレスがかかるため推奨されていない。)


おばあさんはまだわたしの腕を掴んでいる。
相当な熱意を持って助言をしてくれて、そしてテンプレートのように「仕事はしてるの?」と聞いた。

してるよ。生活がありますもの。
今は昔の何十倍、何百倍も教育にお金がかかりますしね。大学は当たり前に行くものになりつつあるし、留学行きたい、大学院行きたい、と言われたら出さないわけにいかないですから。……などと、可愛げのないことは言えない。

それに保育園は単なる仕事のためではない。
1歳にもなれば、母親とふたりだけでは持て余す。子どもの好奇心も体力も、大人の想像をかんたんに超えていく。
9ヶ月で歩き出してから、娘はまんまるおめめをこれでもかと見開いてあっちこっち歩き回った。追って、他者への関心もすぐ出てきた。保育園やそれに準ずる施設の利用は、この子にとって大事だと思えたことが大きかった。
だがそれがなかったとしても、「今の幼児教育では、三歳児神話はまったくが根拠ないとされているし、愛着形成においては……(長くなるので割愛)」と言いたくなったと思う。しかし外国の論文を盾に田舎のおばあさんに立ち向かうのも、なにか違う。


おばあさんの言いたかったことを考えた。
年代的に、やはり「仕事をしている母親だから、愛着形成がうまく行かず指しゃぶりに繋がっているんだ」と言いたかったように思う。
働く母としては、なんとも言えない気持ちだ。

時短勤務で長時間預かりを避け、いろんな工夫や調整で家計と折り合いをつけてきた。
その結果、「肌をくっつけるのよ!」とある意味迷信めいた話をされるのは、なかなか複雑だ。この感情は苛立ちとも悲しみとも形容できない。
(ただ、それで言うと、肌は確実にくっついていた方だ。昼夜なく40分〜1時間おきに泣く乳児だったので、ずっと抱っこする日々だった。ワーママと言いつつも1歳過ぎまでは育休だったし、2歳を少し過ぎた今も娘は抱っこ好き。なんならこのおばあさんに呼び止められた瞬間も抱っこをしていた。)

あれこれ散々頭を悩ませた末、結局「仕事はしています」とにっこり微笑むのみにとどまる。

わたしはどうすればよかったのか。


子どもが保育園に慣れなければ、仕事を辞めるしかなかった。
だが幸いにも保育園を渋ったことは一度もなく、一緒に遊ぶお友だちができたことが楽しかったようで、教室のゲートをくぐればすぐ荷物を置いて遊び始める。ちょっぴり寂しい親は、先生にだけ見送られ出勤にいそいそとかけていく。
風邪っぴきだったことを除けば、娘は今回の引っ越しで退園するまで順調な保育園ライフを送っていた。


言われた気になって傷つくのはナンセンスだよね、と自分に釘を刺す。

仮に思っていたとしても、そこまで言わず、自身が育児をしていた時代の知識でただただ助言をしようとした姿勢に、このおばあさんの優しさがあるはずだ。


ふと、3月末にある患者さんとそのお父さんに退職のご挨拶をした際のことを思い出した。
ちょうどこのおばあさんは、お父さんと同年代(80代)に見えた。

退職の挨拶をしたとき、こんなわたしにもみな感謝を述べてくれる。
わたしが「どうぞお元気で」と言い、「いやもう病気ですけどね」と患者さんに返されるまでが一幕で、そうすることで笑ってお別れを告げることができていた。

ひとりだけ、このお父さんだけは違った。
急に「あなたはそのままで大丈夫です」と言ったのだ。

穏やかな雰囲気のお父さんが急に力強く話すので、わたしは一瞬息を飲んだ。小さく「ありがとうございます」と言うのが精一杯で、やはりこのときも咄嗟に気の利いた言葉は言えなかった。


言葉はいつも突拍子もない。
同じ時代を生きていても、世代が違えば出てくる言葉が違う。私の理解が及ばない過程があり、その数の表現がある。意図を正しく表す手段を持ち合わせていないこともあるだろう。
なにかと敏感になる世の中だからこそ、真の意図がどこにあるのかは、冷静に見極めたい。

あのおばあさんも患者さんのお父さんも、きっと同じ場所に立っている。

終わらない荷解きに、今日もわたしは手も足も動かし続けた。

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