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あの頃わたしは、この町から離れたかった

あの頃わたしは、この町から離れたかった。そして、帰ってくるつもりはまったくなかった。

多分、小学生の頃から、この町に息苦しさを感じていたのだと思います。「中学から東京の学校に行きたい」と親に言ったことを覚えているから。

田舎は良い意味でも悪い意味でも、繋がりが密で、何か問題を起こそうものなら、瞬く間に噂が広まります。

「○○さんの家に見たことない車が停まってた」とか、「○○さんちの○○ちゃんは〜」とか。なんなら、親の方がわたしの同級生の情報を詳しく知っていたりする。正直、そういうこと諸々が恐ろしかったのです。

出る杭は打たれる。目立つことはするな。誰がどこで見てるかわからない。そんな田舎が、子供ながらに鬱陶しかったのだと思います。

「中学から東京の学校に行きたい」というわたしの希望は、もちろん叶うはずもなく。そのまま地元の中学に進学。高校は電車で1時間ほどかかるところでしたが。

地元を離れたいという思いのほかにも、親から離れたいという気持ちも大きかったけれど。とにかく、高校を卒業したら東京に行くと固く心に決めていたのでした。

人生の半分を東京で過ごしたときに

18歳で東京に出で、福島に戻ったのが36歳。ちょうど人生の半分を東京で過ごしたタイミングでUターン。

きっかけはなんと結婚。結婚願望などまるでなく、一生独身と思っていたのに。親にも「結婚はしないからわたしのことは諦めてくれ!」とか言ってたのに。まさかの。よりにもよって地元の相手と。

その頃、ちょうど東京から別の土地に移住を考えていて、何度か視察したりなんかして。地方と東京を行ったり来たりする生活を考えていたときに、まさかの地元。

のちに夫となる人は、東京で仕事を探すと言ってくれたのですが、「わたしが戻った方がスムーズでしょ」と、ぽろっと言葉が漏れてしまっていたのでした。この一言が人生のターニングポイントになるとは。

きっと、向き合う覚悟がやっとできたときだった

前述したように、わたしは自分の生まれ育った町が疎ましかった。二度と帰ってこない、と思っていた。はずでした。

2011年3月11日。わたしの故郷は大きな災害によって、そしてさらに原発によって、奪われてしまいました。そう、当時「奪われた」と確かに感じたのです。

自分から町を出て、もう二度と戻らないと思っていたくせに。自分から町を捨てたくせに。

そのとき、わたしはただ甘えていただけだったと気づいたのです。戻らないと言いつつも、何かあればいつでも戻れると心のどこかで思っていたのです。

もう戻れない。わたしの故郷はもうない。根こそぎ奪われた。

そんな被害者意識もあったのでしょう。現実を受け止めたくなくて、目を背け続けて8年も経っていました。

福島にボランティアに来てくれている人や、地元で踏ん張っている人をテレビや雑誌でチラッと見ては、なぜだか罪悪感に苛まれ。多分、「自分の地元のことなのに何もせず逃げているわたし」「地元に戻るつもりもなかったくせに、被害者意識を持っているわたし」を自分で許せなかったんだろうなぁと思います。

そんなときに結婚の話が出て、「わたしが福島に戻る」という言葉が、思いがけずぽろっと口から出てしまった。今思えば、ようやく、やっと、今更、故郷と向き合う覚悟ができたということだったのでしょう。

夕日が美しかった。そして夏の匂いがした

そんなこんなで籍を入れ、引っ越した先は笑っちゃうほど(失礼な)「これぞ田舎」という場所。目の前は畑と川。後ろは山、山、山。その山並みに沈む夕日が美しかったのです。稜線に太陽がゆっくりと沈んでいく様、オレンジから赤へのグラデーション。子供の頃、外で遊びまわって家に帰る夕方、毎日のように見ていた光景が鮮明に思い出されました。

あぁ、そうだった。夕焼けはこんなにも美しいものだった。

そして、湿気に覆われた空気に土や草の匂いが混じった「夏の匂い」。わたしにとっての夏の匂いはこれだった。懐かしさで胸がギュッとなりました。

帰ってきたんだなぁ、としみじみ感じました。

 故郷に囚われたくはない

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この歳になって、ようやく自分の故郷に対する思いが芽生えた、というか思いに気づいたという方が正確かな。

初回で書いたように、今は富岡町の地域おこし協力隊もやっています。けれど、故郷は好きだけど囚われたくはないと思っていて。「私がこの町を盛り上げなければ!」とか「なんとかしなければ!」とかいう思いは正直あまりありません(怒られるかな)。

思いに囚われて、身動きできなくなるのは嫌だなと思っています。程よい熱量と、程よい距離感。やりたいことをやる。それだけです。

だから、これから一生富岡町にいるという約束もできないし、もしかしたら協力隊を終えたら別の町で暮らすかもしれない。もちろんそれは故郷を再度捨てるということではなく、ゆるく繋がっていきたいということ。思いが強すぎて潰れてしまうよりは、その方がいい。

これから地方に必要なのは、そういうゆるい繋がりをたくさんの人にもってもらうことなんじゃないかなと思っています。いわゆる、関係人口や交流人口というやつですね。

日常を、今を発信していく

震災と原発で一時はボロボロになった故郷ですが、今は前を向いて生活している人がほとんどです。私は、そういう人たちの今を発信していきたい。そして何より、富岡町にも他の地域と変わらない日常があるのだということを伝えたい。普通にこの町で暮らし、普通に働いている人たちがいるということを知って欲しいのです。

そんなわけで、大雑把にまとめましたが、これからも自分にできる範囲で細々と発信していきます。

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