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気力の衰えは「諦観」によるもの?
歳をとっていくにつれ失うのが体力。
いや、体力だけではありません。気力も失います。
体力は運動などである程度維持することができます。
ところが気力については維持する方法を知りません。
運動をする気力がなくて、体力が衰えてしまう、なんてことも。
数年前から毎週欠かさずにランニングしていたのですが、ぎっくり腰を機会にすっかり停滞している今の私がそうです。
一説では体力がないから気力が衰えるのだそうです。
ま、どっちでもいっか。
なんでも歳のせいにするわけではないのですが、なんか切なさを感じます。
気力というのは、ああしたい、こうしたいという「思い」だとすれば、その思いが「諦め」になってしまっているのかもしれません。
しかしこの諦めというのもポジティブな捉え方とネガティブな捉え方があると思っています。
ネガティブな方はだいたい想像つくとして、ポジティブな諦めというのは「諦観」という言葉があるように、物事の本質を見る、道理を明らかにするという意味となります。
きっと歳を重ねてきて必要なものとそうでないもの、重要なこととそうでもないことの答えがうっすら見えてきているということもあるのでしょう。
いや、世の中のほとんどのことはまだまだわかりませんよ。ただ、以前の自分と比べて判断がつくようになってきた、ということです。
一方でネガティブな諦めは「もういいや」という投げやりな気持ち。こちらは歳に関係なく良くないことですね。
ですので気力がないからといっても諦観により捨てたこと、というものがあるわけです。
気をつけるべきは「もういいや」という気力の低下。この見極めが肝心です。
と自分を納得させているところです。
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