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今、「経験する」ということ

大阪にある国立国際美術館にて開催中の“感覚の領域 今、「経験する」ということ”展に行ってきました。

美術館、1人で行くの?と友人に驚かれたけど、確かにカップルと思しき2人やその他集団がほとんどで、俺以外に1人の人はあんまり見かけなかった。単独行動が得意な訳では決してなく、というのも、いわゆる自意識過剰であり、マスクの下のすまし顔のその裏で非常に居心地悪く思っていたりする。他のソロ客もいることにはいたけど、みんなオシャレで落ち着き払っているように見えて、せめて腹の底では俺と同じくらいソワソワしててほしいなって邪な思いで見ていた。


作品を見ること

|中原浩大「Text Book」

中原浩大《Text Book》2022
国立国際美術館インスタグラムより
(画像・下線部タップでリンク先へ飛べます)

1人で鑑賞している自分を俯瞰すると、なぜか自分の立ち姿や位置取り、服装までもが気になって、ドギマギしてしまう。中原浩大さんの「Text Book」という作品は、配置と鑑賞方法によって、そのドギマギを敢えて増幅させる展示なように思えた。

全部見ていない

この作品は、図書館の大型コーナーにあるような、それよりもっと大きな本。見開き1ページにひとつ、大きく丸が描いてあって、それぞれ色が異なるようだ。

スタッフから1ページずつめくれと念押しされ、手袋をした手で慎重にめくるも、俺の後ろの人も鑑賞したそうに待っているのがわかる。いえ実は、俺もさっきまでそうしていて、前の人が鑑賞するのをあんまり急かさないように部屋の端にコソコソしていたのだけど、あまりにページ数が多いのでその人は結局最後まで辿り着けずに見終えてしまった。そして俺も、そうだった。

恐らくは最後まで丸が描いてあったのだろうが、はたまた全く別の図形や絵が描かれていたかもしれないし、もしかするとどこかから真っ白のページが続くのかもしれない。でも、俺が知り得たのはせいぜい初めの20~30ページぐらいで、それまではずっと色の違う丸が続いていた。聞くところによると、ぜんぶで150ページくらいあるらしい。

これだけ大きな紙で、かつ手袋まではめさせられるとどうしても丁寧で慎重な手つきになる。表紙はスタッフの方が開けてくれた。ゆっくりと白い遊び紙をめくると、丸が見える。正直、色の名前も意味も何も知らない。分かったフリをして1枚めくり、さっきと違う色の丸を見つめる。一応、「フムフム、この色、分かってますよ」と言わんばかりの顔で頷いたりして、全体を眺める。おずおずとページをめくる。フムフム。この動作ひとつひとつに、控えめで、それでいて鋭い、後続の客の監視の目が光る。おっと、まだ3ページ目!

見つつ見られている

この作品は、比較的狭い部屋の真ん中のテーブルの上に置かれて、そして部屋の端に"触れられない"(そのように指示があった)、同型の作品が置いてあった。その意図は何だろうか。触れられないそれは、まさに俺が見逃した残りのページ同様に、丸が描いてあったかもしれないし、別の図形や絵が描かれていたかもしれないし、もしかすると、なんにも描かれていない、白紙の冊子だったかもしれない。

触れられないそれの中身を、俺もおそらく俺の次に待っていた人も、その次の人も、みんな中を見たくてたまらなかったと思う。コソッと手を伸ばせば覗けたかもしれない。でもみんなそれをせずに、ただ無地の表紙と部屋の真ん中の人の背を眺めることしかできない。芸術作品は、触れていいと言われれば途端に触りたくなってしまうが、言われるまでは聖なるもののように触れられない。

みんなさんざん焦らされて、ようやく自分の番になって、いよいよ意気揚々とめくり始める。それなのに、最後のページにたどり着くまでに、後続の人のことを気にして手を止めてしまう。さっきまでウズウズしていた自分のように、後ろで待つ誰かもウズウズしているのではないか、と。

思うに、この作品は意図的にこの配置と鑑賞方法を取ったのではないか。自分の手でページをめくりながら「体験するアート」の体で置かれていながら、その実、最後までめくらせない気満々のページ数。背後にはウズウズソワソワする他人。この状況では、鑑賞者が最後のページまで行き着かないないことを作者は知っていたはずである。まさか美術館内がガラガラで、一人一人に最後までめくりきる時間が与えられているとでも想定していたのだろうか。

これは俺が、部屋に入って途中で止める人を見ていたたまれなくなって退いては、また部屋に入るなんて愚行を繰り返したから知っていることだけど、少なくとも俺が見た5人はどの人も、そして俺も、最後のページにはたどり着けなかった。

ざっとまとめて言うと、ドキマギの正体は「自分は部屋の真ん中にいて、端で焦らされ待たされている他人に見られながら鑑賞する」という経験によって与えられる感覚で、この作品はそれを、意識させるように意図的に仕掛けてあったように思う。

自分が見る、自分で?見る

この作品が「体験型」だと言えば、俺を含む少なくとも5, 6人はこれを体験しきれなかったことになる。つまり、作品を余すことなく味わえなかった。"「経験する」こと"と題された展示において、俺はその「経験」を全うできたと言えないかもしれない。

しかし思うのは、この作品は本当に、ただ鑑賞者である俺が手を動かしてただ一人、自分だけで主体的に見ることが許された作品だっただろうか。言いたいのは、作品鑑賞に際して、一切の外的な要素を排して自身の内部だけでことが成立するなど有り得るのだろうか、ということだ。

5, 6人のサンプルでは足りないかもしれないが、その全員が、自分の後ろに待機している人に配慮して見るのを終えたのを知っている。みんなが次の鑑賞者に場所を譲り、その際、会釈をしたり、「お待たせしました」と気を使う声掛けが聞こえたりした。

あるいは、スタッフの方に聞けばよかったかもしれない。最後まで見られた人が1人でもいたかどうかを。よほど図々しい客や、本当に閑古鳥が鳴く中であれば、ページをめくりきった人がいたかもしれない。あと思いつくのは、後ろの客が一緒に見ましょうと提案することで問題はおおよそ解決するのだが、そのようなことが現実で起きるかは定かではない。

(この先もずっと)所感だけれど、美術館の展示を最後まで見たことってないなと、この作品を見た後に思った。鑑賞に終わりがないことは知っているけど、この作品には、一応の終点がある。ページを全てめくりきったところがそれだ。

ただし、必要があれば、遡って見足りないところをくまなく凝視することができる。全てのページに亘って凝視して、色の名前や意味を全て理解しようと試みることができる。でも誰もそれをしないのはなぜか。空間と時間の中に孤独が許されていないからだ。他人の目が同じ部屋に無ければ、もしくは、時間が無制限にあれば、隅から隅まで見尽くすことができるかもしれない。

(実は、それでも不完全だと言いたい。視覚によるもののみをここで「鑑賞」だと呼ぶ誤謬を取り除けていないからである。鑑賞はもっと多様な知覚体験であるというメッセージをこの作品展から受けた。)

この作品でなくて、壁にかけられた絵画の作品でもいい。インスタレーション作品でもいい。その前で、腕を後ろで組んでみたり前で組んでみたり、ふんぞり返ったり背筋をピンとのばしてみたり、上から下から斜めから、近くから遠くから、逆立ちしてもいい、色んな姿勢をとって見て、ずっとその意味を考えていたいのだけれど、左から、他の客がやってくるのが分かる。みんなが、(知らず知らずだとしても)周りに気を遣いながら、ありもしない順番を守って、何となく前の人について行ったり、追い抜かすのをためらったり、追い抜かされそうだと感じて次の展示に移動したりするのではないか。

我々は常に誰か他の人の存在(それが背後に居て見えないとしても)を意図せずとも認識していて、場所を譲ったり、鑑賞の順番を模倣していたり、あるいはそれでいて傍若無人に振舞ってみたりするなんていう、ある意味律された社会性に、アートも無関与ではありえないということではないだろうか。

部屋の形や他の人の気配、タイミングや時間制限に支配されて、のめり込むように、あるいは細部まで舐め回すように見ることは(特に俺みたいな自意識過剰人間には)できない。 おてんとさまが見ている、ではないが、誰かに対する意識が常に伴う鑑賞が、純粋に作品だけを"主体的"に見る行為であるとは思わない。100パーセント、純粋な意識で作品に向き合うなんてことは、金輪際できやしないだろうと思ってしまった。

言い忘れたくないのは、恐らく丸の配置や色も意味があって、特に俺は色弱なので、色を知覚すること、色が物質に備わっていること、そういうことも考えたくなってしまうということ。この作品の意味はもっと複雑にあるはずだ。だけど、この作品を通じて特に感じたのは、俺はいつも作品を見ながら、同時に誰かに見られているような気がしていたということで、ようやく言葉にできた嬉しさもある。


空間の中で見ること

|飯川雄大「デコレータークラブ」

飯川雄大《デコレータークラブ》2022
国立国際美術館インスタグラムより

同展示の他の作品シリーズ、飯川雄大さんの「デコレータークラブ」は、美術館の展示室という空間そのものの捉え直しを促すような作品だと感じたのだけれど、つまり、作品そのものがただあるのではなく、その時作品はある空間の中に置かれていて、また、鑑賞者の俺は赤の他人とその時空を共有しているという事実をこの作品は浮き彫りにしているように感じた。

石ころ帽子みたいに

展示室に入ってすぐ、足元に誰かのリュックサックが置いてあった。その時は全然気に留めなかった。別の部屋に、キャリーカートに積まれたリュックサックが3つ並んでいるのを見て、可笑しくなって入口のリュックサックを見に戻った。俺もその日リュックサックを背負ってここまで来たのだけれど、その時、俺のリュックサックはコインロッカーの中に入れないといけなかった。どうも、ここにリュックサックがあるのはおかしい。

結局、大きいカバンはロッカーにしまうという当然のルールを無視する人がいたとか、そういうことではなくてよかったのだけど、そのリュックサックは展示品だった。また、リュックサックはどれも30キログラムあるらしく、(それもそのはず、作品名は「ベリーベビーバッグ」である)それを知らずに持ち上げようものなら二つの意味で腰を抜かす可能性がある。

初め、視界の端にそれを捉えておきながら、俺はそれを無視した、いや、無視することができた、と言い換えておきたいのは、他人のものと思わしきリュックサックが俺にとって全く関心の的になり得ないからである。こと日本において、街中や喫茶店の席などに置かれたカバンのことを気にかける人はあまりいない。俺も、あっても、誰かがそれを盗るのではないかと心配をするくらいで、まさか自分が盗んでやろうとは思わない。美術館においてもそうで、注意の対象からは外れているのである。

日本人が海外旅行をする際には、カバンから目を離さないよう再三注意される。文化によって人が意識を向ける物事に違いがあることは往々にして有り得るだろう。日本よりもっと盗難が多い地域で、この展示はまた違った意味をもつかもしれないと思った。

ドラえもんの道具に「石ころ帽子」というのがある。漫画で読んだことがあって、少しゾッとした記憶がある。その帽子を被った人は道端の石ころとして周囲の人から認識されるようになる。声を発しても届かないし、手を振って目の前で猛アピールしても意味がない。歩いてる時に石ころが落ちていても気にしないのと同様に、見えていたり聴こえたりするのに無視されるのだ。ゾッとしたのは、のび太がこれを被ったきり脱げなくなって、でも誰にも気づいてもらえないので、ついにはドラえもんの助けも借りられなくなるところだ。

初め視界の片隅に捉えたリュックサックのように、見えているのに意識されないで無視される。あからさまな展示物としての別のリュックサックを見つけてようやく意識にのぼった。人は、自分が見ているものを全てだと思うかもしれない。でも実際は、見ているものよりも多くのものがこの世には存在する。無論、視覚だけの話じゃない。知覚されたもののうち、無視される部分は思いのほか大きい

余談だけど、30キロもあるリュックサックの中に一体何が入っているのか知りたくて、開けてもいいかとスタッフの人に訊ねたところ、「開かないようになっている」との回答があり、なんだかやり込められてしまった感があった。というのも、先の「Text Book」同様、最後のページやリュックサックの底を見ることができない、という感覚は想像力とともに若干のフラストレーションを掻き立てるからだ。

ここにアートがあるから

リュックサックの中身が気になってしばらくして、だんだん見るもの全て、そうリュックサックの他にも、展示室内に置かれたパイプ椅子や消化器、展示室の壁やトイレ、立っているスタッフの人までもが「もしかすると作品である可能性」を秘めているように思われ始めた。そうなると、今はロッカーの中にある自分のリュックサックの形状や、今着ている服のデザインを含め、この世の全てが拡大されたアートの概念に包み込まれつつあった。

有名すぎるデュシャンの「泉」で問われていた、「これがアートだ」と言えばそれがアートなのか、という問題にも通じるかもしれないが、この作品はアートしか在るべきでないと思われている場所にいかにもアートらしからぬ体をして床に置かれているそれこそがアートであるという静かな主張。アートを配置する空間、そこに在る全てを我々は経験することができる…いや、無意識的にも経験しているだろうことを伝えていた。覚えていない部分は、そう、かのリュックサックのように無視され忘却されたのである。

美術館に来たので作品を見ようとするのは自然なことで、アーティストも普通それを望んでいると思う。その時忘れられたものはアートたり得なかった、何らかの印象(意味)も与えなかったものだ。だから、作品の外部は普通本質ではない。

この作品は、むしろそうした無視されるべき作品の外部を見せようとすることで、アートが置かれる空間の細部にまで本来行き渡せることのできる知覚と、その大部分を忘れさせる脳のしくみを思い出させる。そして、空間内部の物にアートとしての役割を与えることで、今一度アートとは何か考えさせる契機となる。

空間の中に、ひとりふたり…ひとつふたつ…

同シリーズに、まさに展示室内部の構造を、鑑賞者の自分たちが壁を押して広げたり、反対の面では狭くしたりできるインスタレーション作品があった。反対の面にいる人は、一体どうして壁が動くのか思いもよらない。そのコンセプトたるや、「自分の鑑賞が、誰かの鑑賞のための行為に」である。ここで「鑑賞」が意味するところの「単に作品を見ること」ではないというのがわかる。自分の鑑賞は壁を押すことで、誰かの鑑賞は動く壁に驚いたりすることである。とりも直さず言うと、鑑賞は身体全体を使う行為にほかならない。

壁を押し切ったところで展示室に開けており、また鑑賞を続けることができる。ちなみに、見ず知らずの人と一緒に壁(というより部屋?巨大な箱?)を押すのだけど、1人で来た男が、カップル2組と一緒にその壁を押して動かしている様を想像して、笑っていただければまだ幸いである。ともかく、俺が感じた作品のねらいは、強烈に他人を意識しながら自分の手で空間を伸び縮みさせることにあった。そうしてやっと実感を得ることができたが、空間を他人と共有しているのは、何もこの作品の特質ではない。それを、普段特にそれだけを考えることはない、というだけのことで。

先のリュックサックのような物以外にも、他人の存在もまた、視界の端にチラついているが、多くの場合それを無視することができる(俺の場合は四方八方に他人がいることを常に意識するので疲弊してしまうのだが)。さすがに目の前に横入りされたり、見たい作品の前で悠然と写真撮影会を行っていたりすると、さすがに意識せざるを得ない。しかしそれでも、全員を位置から服装まで把握しておくことは不可能だし、情報の大部分は便利な脳によって仕分けられ、無視される。

この作品は、無意識下にあったそうした経験を顕在化する力を持っていた。空間の広さに加え、展示室の温度や湿度、匂い、他人の姿や足音、誰かのリュックサック…。意識と無意識を行き来するそれら「空間の細部」とでも呼ぶべきさまざまを包み込む展示室において、純粋に作品と対峙することとはどのようにしてありえるのだろうか。純粋に作品を見ることができないのであれば、観賞を通じた経験とは、いったいどういうものなのだろうか。


誰かと見ること

|名和晃平「Dot Array - Black」「Line Array - Black」

名和晃平《Dot Array - Black》《Line Array - Black》2022
国立国際美術館インスタグラムより

誰かと見て、1人で経験する

名和晃平さんの作品ブースにて、「こっちは焦点が3つで、こっちは2つだ」と同伴者に話しかけている人が居た。俺は焦点をそのようには見ていなかったので、それに異を唱えたかったのだけど、できなかった。赤の他人に話しかけられなかったというのもあるし、見方によっては実はそうなのかもしれないと思ったから。正しい見方ができている自信がなかった。

その時誰かと来ればよかったかなと思ったのは、感想を即座にアウトプットできて、しかも自分と異なるフィードバックを得られる可能性があるかもしれないと思ったからで、決して1人で壁を押す際の気恥しさを憂いたからではない。どうも1人で見るという行為に制約や限界があるようでそう思ったのだけど、でも2人で見に行くときの気の遣いっぷりったらないな、とも少しして思った。帰りの時間やはぐれる不安や相手が楽しんでいるかどうかなどに気を配っていては、上の空で作品をぼうっと眺めることしかできない。

それは半分冗談だとして、経験には、誰かと鑑賞する時と1人で鑑賞する時とで、どんな違いがあるだろうか、という疑問が浮かんだ。テレパシーでも無い限り、作品を見て生じる心の機微はその人だけのものだという事実は、疑いようがない。誰かと来たからといって、2人分以上の視点から見たときの心の動きを「言葉にして」共有したところで、全てまるっと通じ合えるかは分からない。結局、経験がしまい込まれるのは自分の心の中でしかない。

誰かから、意味が与えられる

しかしながら、例えば、心の機微を写し取った言葉は、それを聴く者に対して再び意味を与える。作品(作者による)の意味と、作品の解釈(同伴者による)の意味―、こう言えば良いだろうか。それらを経験するのは、いち鑑賞者としての自分である。つまり、同伴者の言葉も、経験として自分の心の中にしまい込まれる。それを覚えておくか、あるいは重要なものと考えるかはさておき…。

だから、誰かと一緒に鑑賞することと、1人で鑑賞することの最大の違いは、考えるまでもないことかもしれなかったが、他者の言語表現などを含め、意味を重層的に経験できるかにあると思う。だからといって、1人でする経験が重層的でないかと言われればそうではないとも思う。俺みたいに盗み聞きしたっていいのだから。

同伴者がいない人も、赤の他人と空間を共有しているのは、先にも述べた。知っているに決まっている、俺は知らないカップル2組と壁を押して空間を作ったりしたのだ。そんな他人の存在は、盗み聞く言葉のほかにも、鑑賞者としての自分にとって意味を示しうる存在である。作品の前に人だかりができていれば、みんなが挙って見たがる有名なものが置かれているのかもしれないし、反対に誰もが立ち止まらない絵には、魅力がない、目を惹かないという独自性がある。却って、逆張りしたい人はそこに立ち尽くすことで、自らが玄人であるかのような印象(意味)を他人に与えることができる。作品を背景に写真を撮る人が居れば、その人にとって作品は良い物に見えたのだろうし、こうした例は枚挙に暇がない。ともかく、他者に由来する意味(印象)は、言語によるものだけにとどまらず、その行為全てから与えられる。

空間の細部や、それを共にする他者というのは厳密には作品以外の部分で、言ってみればコンテクスト、言ってみればノイズとして、例えば「上の空で作品をぼうっと眺める」原因になるかもしれない。しかしそれらは作品のあるところに必ずついてくるものとして、鑑賞の際に一緒に経験される。一緒に経験されていながらそれを覚えていないことも、当然ありうる。経験を個別のものと考えなければ、実はそれは、共時的に知覚されたものの総体であり、そしてその一部、意識された部分が与える感触が、これまで「経験した」と思っていた感覚の実態である。

正しく見るとは、正しく経験するとは

一体どんな見方をすれば「正しく見る」ことができるのかなんて結局は不毛な議論だ。1人で見ても、誰かと一緒に見ても、作品のすべてを知ることはできないし、結局ソワソワしてしまうのだろう。俺が過敏なのかもしれないが。しかし、ソワソワしたことすら、鑑賞した経験の一部である。つまり、経験することは単に見ることではない。五感全てが経験に携わっているはずである。経験の感触を与えるのは知覚された内、意識された部分のみだが、全て思い出して言語化することができなくても大丈夫、見ていないと思っていても大丈夫、意識されないものも経験はしている


経験の実感を得ること

|伊庭靖子「Depth」他

伊庭靖子《Depth》《Untitled》2021-2022
国立国際美術館インスタグラムより

人間の、人間による、人間のための経験

経験の感触を与えるのは知覚の意識された部分のみであると述べたが、それは伊庭靖子さんの映像インスタレーション作品「Depth」を通じて強く感じたことでもある。その作品では注目の仕方(目の使い方)が他とは違って、作品の脇に添えられた注に従って、寄り目をしながらスクリーンを見ることをした。通常とは異なる焦点の合わせ方は、模擬的な閾値の変更なのかもしれない。普段の目の使い方では見えないものを見ることができるようになる、という意味では、花の色を、昆虫がするようにして紫外線までをも反射させて見ることができるようになるのと近いように思った。

作品は、注目した部分だけが立体感(存在感?)を持って立ち現れる不思議な映像。それを見ながら心は、普段、つまり寄り目をしない時の、世界への注意の向け方に回帰せざるを得なかった。それは、昆虫の普段ではない、人間としての俺の普段の世界の見方である。寄り目は、長時間ものを見るのに適していない。

立ち現れるカタチは不定形の凹凸で、何か意味があるとも思えない。焦点も前後し、カタチが見えたり、見えなくなったりする。現実世界はもう少し対象が具体的かつ静的に見えるかもしれない。それは普段の目の使い方をしつつ(物体に焦点が合っているなど)、言語などの分節(色が名前で区別されるなど)を利用してカタチを見極められる、もとい、身体の構造上(知覚)の制約に則って人間が見極められるところで、言語を通じてカタチを決めたからなのだと思った。ここで見える不定形には名前がない。

そうして、見極めることができたカタチは意識されやすく、経験の感触が得られやすい。経験する必要があるからだ。反対に、何か分からないもの(=名前が無いもの=分節不可能なもの)に対しての意識は働かないか無視されやすく、経験としての感触をもたらさない。危険でないか魅力的でないから無視していいのだ。

見ることができる、できないこともある

砂嵐の映像(加工前の映像がぼんやりと分かる)に、寄り目でいわゆる立体視をして初めて何かの「カタチ」が現れる。それまでは何も分からない。「寄り目ができない」と言った人は早々に展示から離れてしまった。俺は幸い、一昔前に流行った(?)「マジカルアイ」と言うやつで訓練されていたので、作品を見る方法に困ることはなかった。しかし、思うに、ある人は指定された(作者が想定した)方法で見ることができない、というのもこの作品の意図するところではなかろうか。

つまり、美術は視覚に頼りきっているところがある。でも視力も色覚も人それぞれバラバラの目で、一つの作品を同じように見ることすらできないで、同じように経験することなど到底不可能だ。全ての知覚に個人差がある。経験の共有不可能性をある面では表現しようとしていたのではないか。

そのことから、まず「正しく見る」なんて言説が嘘っぱちなのが分かる。他人とはやはり違う見方、違う知覚の仕方をするので、それから得られる経験もまた、人によって異なる。それから、意識しうるもののみを「経験」だと呼んでいるけど、意識の外側にも世界は広がっていることをまた知る。意識された経験(これが経験だ!という感触がある種類の経験)の蓄積ばかりで世界を知った気になるなよ…というのはあまりにも深読みしすぎか、こちらから意味づけしてしまっているかもしれないけど、とりあえずそのようなことを思った。


今、「経験する」ということ

今のすべてを経験できる

例えば、読書が作者や登場人物の追体験である、という言説に不用意に賛同できないのは、自分があくまでも読者にすぎず、そこで得られる体験は視覚だけが与えるものではありえないからだ。部屋の匂いや温度、光の色、鳥のさえずり、ふくらはぎの筋肉痛、昨日の喧嘩の記憶、ティッシュ箱、リュックサック…、全てが読書にまつわる個々の経験として付与される。そして個々の経験の総体が、今ここでもう一度「経験」と呼び直すべきものである。その上で想像力は飛躍し、物語に没入する。その時、その没入の仕方は、人によって異なることは、ここまで来れば自明である。

また、コンサートのことを考えてみる。単に視覚と聴覚の体験だと思うかもしれない。確かに主として経験に関与するのはその2分野かもしれない。でも嗅覚も触覚も、もしかすると味覚も、その時の、その場における経験を形成していることは、もはや疑いようがない。

ジョン・ケージという音楽家の「4分33秒」という曲がある。この曲では、オーケストラが位置について、指揮者が開始の合図をして、閉じるまでがちょうど4分33秒で、その間指揮は行われない。つまり、オーケストラは何も演奏しない。そこに流れるのは「音楽」ではなく「沈黙」であるが、この沈黙が全くの「無音」であるかといえば、そうではないのが面白い。

YouTubeで見ることができる映像でも、誰かの足音や衣擦れの音が聞こえ、時には咳をする人がいるかもしれない。演奏者の面々も、やはり微動だにしないのだが、鼻を擦ってみたり、座り直してみたりして、普通なら無視されるような小さな音をたてているようだ。実際にホールなどでは、空間の温度や隣の席に座った人の香水の香りや、座席の微小な振動などを感じずにはいられないだろう。

なぜこの例を急に放り込んだかといえば、作品を真正面から対峙して見る、純粋(だと思っている)な作品鑑賞が、そういった無視されるような小さなノイズを常に含んでいることを、この作品が示しているからだ。想像するに、沈黙の中ではそれらのノイズが明瞭に現れるため、各々が自分の身体の動作に気を配り音を立てないよう意識するだろう。つまり、音楽が鳴り響いている時には意識されていないだけで(大音響にかき消されているからなのだが)、ノイズがあちこちで起こりまくっているはずである。意識されないでもすべてを、我々は経験することができる

加えて言うなら、一度「演奏」されたこの曲は、もう二度と同じ形を持って現れることはない。演奏者は運指や息継ぎに失敗することもないのに、である。ノイズは音だけではなく、視界に入る周りの観客の姿、会場の冷房が効きすぎていること、椅子の硬さ、もう何度も繰り返した例だが、隣の席に置かれているカバンでも構わない。譜面の音符とは異なり、経験は複製不可能である。作品が唯一無二であるのと同様に、そのノイズを経験できるのは、その場限りなのである。

身体の経験としての芸術鑑賞

この展示は総じて、銘打たれたとおり「経験」のあり方を考えさせるものであり、さらに言えば、経験が、作品そのものと作品外のコンテクストとを結び付けて得られるのだということを表しているように思った。「作品そのもの」を「正しく」「最後まで」「自分だけで」鑑賞しようとする単純な鑑賞者(=俺のような)に対して、それは無理なんだよって。作品そのものは動かないけれど、様々な不確定要素を含む、動的なものこそが経験としての鑑賞であると。

何が言いたいかと言うと、作品のみを見るという鑑賞こそが純粋な経験だという思い込みから逃れる唯一の方法は、自分を、作品や作品以外の様々なものごとと空間を共にしている身体として見つめ直すべきだということである(このことはもしかすると自分に向けて言っているのかもしれない)。上でも述べたが、作品は作品としてそこにあるのではなく、展示室なり、ホールなりライブハウスなり、アパートの一室でもいい、とにかく空間に置かれなければならない。ときには空間から別の空間への移動もあるし、開かれたところに佇むこともあるだろうが、それでも地面なり壁なり運搬車両なり、何かを拠り所として、言い方を変えると、作品は何かとの空間的な関係の中でしか存在することができない

自分の身体もまた、作品との空間的な関係に置かれる。(空間に内外を分かつ境界があればの話だが、)同一の空間の内部にあり、その身体にとって知覚可能であるすべてのものを経験することができる。意識されない知覚一例えば、初め見逃した足元のリュックサックについて一は経験の感触をもたらさないのでしばしば無視されるだけである。

我々は美術館に行く目的に作品を見に行くこと以外に置くことが少ないので、作品以外を見逃しがちである。しかし、実際、作品の外部に対しても五感を閉じてはいないし、その感触が得られていないという他は、そこにある全てが鑑賞という経験に無意識の知覚として含まれているはずだ。

そういう意味で、美術館などは空間全体が「魅せる」ための仕掛けとして機能しているから、見落とすのも少し惜しい。だからといって足元や壁ばかり見たり、人のカバンを凝視しろとはとても言えない。なるべく説教臭くならない方法をご提案するならば、もはやこれは言うまでもないことではあるが、(可能なら)写真を撮ることである。人と来ているならば自分のポートレートでもいい。ただ空間は背後にしっかり写っている方が、いえ、これも説教臭くなりそうなのでご自由に。

普段の会話なら「人間ごときが芸術の前で…」と(もちろん冗談で)言ったりもするが、それはSNS投稿最優先のマインドが他人の鑑賞時間を蔑ろにしてしまうという面をコンコンと軽く叩いているだけのことである。そのことがその人だけの経験を形作っていること自体を否定する気は毛頭ない。
後で見返すその写真が経験の一部として形をなすことが、「映え」にとどまらない美術・芸術鑑賞の価値であるように願っている。

くどくなるが申し上げておくと、国立国際美術館も写真撮影を許可しているし、それを自ら発信してさえいる。


さいごに

この展示に1人で行ったのは、作品を心ゆくまで見たいからという理由だったけれど、それだけで全て理解するというのは無理な話だし、何より人目を気にする根暗が祟って、カップルを横目にソワソワしているうちについに時間もあって切り上げてしまった。

でもきっとみんなそうしていて、時間とか空間とか、自分と他者とか、いろんな制約に見舞われながらも上手くどこかで折り合いをつけているんだろうなと思う。ある生活の中で、街の中にある美術館に行って作品を鑑賞するという行為が、全くもって作者の心理の追体験になりうるはずがないことを思った。

それが仮に「体験型」と銘打たれていたとしても俺は究極的には1人の鑑賞者であって、作品づくりに与したわけじゃない。でも、動かして、触って、見てはじめて作品が鑑賞者の元に届く。そこまでしてようやく美術・芸術として成り立つのだろう。作者と溶け合うようにして経験する人もいるだろうけど、特に俺は無知なもので、今回の展示も誰一人としてアーティスト方々を存じ上げなかったために、そうした感覚は一切得られなかった。でもそんなのができるのは、アーティストの素性まで知っている、ほんの一部の人だけなような気もする。

生意気に申し上げることでもないが、俺は俺で、俺にしかできない経験をしたと思う。多分この一連の感想も誰かからは否定され放題の素人の戯言にすぎないのだろうけど、むしろ、そうでありたいとさえ今は思う。作者の心が「完全に解った」なんて俺はとても言えない。  

ひとつ、「今、「経験する」」ということに思い当たるとすれば、人との距離に関する経験のことである。今、人と会話するだけでも距離を気にしたり、換気を気にしたりするのが常で、どうしても心的な距離ばかりでない、物理的な空間認識が敏感に働いているように思う。これは今まであまり意識されなかった経験の感触だ。そういう部分を問い直しているのかもしれないと思った。意識されるものが変わった、という意味で。全ての作品を見終えて美術館を後にして、今、帰りの電車の中にいる。


この他にも出展されていた何人かの作家さんや作品について触れられていないところがあるし、触れた作品についても、批評とかはできず、あくまで俺の感じたことの一部を言葉にしてみただけで。それゆえ的外れで失礼なことを申し上げているかもしれない点については、すみません、もっと勉強を頑張るのでどうかご容赦願いたい次第です。最後になりますが、ご紹介出来なかったアーティスト方々の作品をリンクとともに載せておきます。※すべて国立国際美術館のインスタグラムから引用しております。詳しくはそちらをご覧下さい。

今村源《きせい・キノコ-2022》2022
国立国際美術館インスタグラムより
大岩オスカール《Big Wave》2020-2021
国立国際美術館インスタグラムより
藤原康博 1999-2022
国立国際美術館インスタグラムより

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