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りんごの窪みで息絶える生物を見て

りんご園で葉取り中。
りんごに陽が当たるよう、に影をおとす葉を取っていく。

30分に1回くらい、りんごの窪みに虫がついているのを見る。
りんごの日当たりに邪魔になるものは取らねばならないため、手で払う。
「生きている?」「いや、死んでいる。」

払う虫は、どれもみな息絶えている。
羽を休ませているかのような気品ある装いで、彼らは死んでいるのだ。
りんごの艶やかな丸みに沿うように、細い足を添え、しゃんとして。

蜉蝣かげろうかもしれない。」
その姿を見ていたら、10年くらい前に習った話のイメージが入ってきた。

死の面影

淡い光
薄ら寒い

その生物が結局なんなのか聞くこともないまま、数日が過ぎた。

今日、ふと「蜉蝣」を検索すると、紛れもないその虫が、画面にせいの姿で現れた。
「蜉蝣 りんご」ではヒットしなかった。
だけれど、確かにあれは蜉蝣だった。

教科書でよんでいたのは、吉野弘の「I was born」
こんなタイトルだったか。覚えていなかった。

正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね

蜉蝣は数日の命。口は退化し摂食機能を持たない。
腹いっぱいに詰めた卵を産み落とし死んでいくという。

空になった彼らは、しかし外骨格を残し、美しいまま一生を終える。
命をつながれたものもまた、同じだけのせいを終わらせていく。
ほの明るいせいの営み。

生む方はいつだって自分勝手だと思う。
それを自覚せず生ませられたものに対し親ぶるひとが嫌いだ。

私の兄は「なんで俺を産んだんだよ」と親に言った。
「すまない。その通りだ。」父は静かだった。
父のその姿を私はほんに尊敬している。
生ませられたせいは、生かされなければならない。
生みの謙虚さを持たず、おごり高ぶる者のなんと小さく軽いことか。

りんご園の中。実ったりんご。
人の手にかけれられて、りんごはりんごになっていく。
言葉にはならないものから(敢えて書くなら「りんごのようなもの?」)、りんごでしかなくなっていく。
りんごよ、生むものをどう思う。
醜いだろうか、美しいだろうか。

生ませられたりんごで息絶える蜉蝣。
彼もまた生ませられ、生んでいく。


私は、美しくなれるのだろうか。


「箱船の教室」 
作曲 松波千映子
作詩 小林香

2. 漂流アリア

Vissi d’arte
Vissi d’amore
歌に生き
愛に生き

私は何に生きているというのでしょう
私は何を生きているというのでしょう
マリア・カラスのアリアが
私に問いかける
半世紀後の地球の裏の
この音楽の教室で 
声も出さずに 
ただ聞いていた私に

歌に生きてはおらず
愛に生きてもいない
学に生きてもおらず
恋に生きられもしない
でもなぜでしょう
このアリアは 
まるで私の沈黙の代弁者のように思われます

Vissi d’arte
Vissi d’amore
歌に生き
愛に生き

嗚呼
私は何を死んでいるというのでしょう
私は何を失ったというのでしょう
むしろいまとなっては
失われし恋のアリアを歌いあげられるというのに
ただ一人でも 無伴奏で

夕日が校舎を赤く染め抜く
黄金(こがね)のイチョウが舞い落ちる

大人になったら 美しくなりたい

Vissi d’arte
Vissi d’amore
歌に生き
愛に生き


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全然関係ないのですが、応燕していたので…
東京ヤクルトスワローズ、今季最終戦お疲れさまでした。
村上選手の第56号ホームラン、内川選手、嶋選手、坂口選手の引退。涙なみだの1ゲームでした。感動と勇気をありがとう。大好きです。

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