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一年前と変わったこと

川のほとり、折りたたみの椅子を広げて腰掛ける。
地元はきらいだけど、ここには時々来たくなる。

空を見上げる。電線のかかっていない広い空が好きだ。ここは少し下に目をやると電線がかかるので、フルスクリーンの空を見るには背を反らす必要がある。
耳を澄ます。救急車のサイレン、学校のチャイム、カラスの鳴き声、自動車の走行音、すすきの擦れる音。郊外の川沿いは空気の振動が混ざり合っている。

一年前の今頃、私は母と この川沿いを散歩したのだった。
会社に行けなくなる一日前。
同じ場所に立って(今は座っているが)、変わったことを振り返ってみる。

職と住まい

首都圏の営業職から、移住を伴う転職をした。今は田舎でとある仕事をしている。
弱冠24歳にして、現代社会に生きることに疲れてしまったのだ。受験して良い大学に入り、就職してお金を稼いで、稼いだお金を休日レジャーに消費して、平日はまた稼いでお金を得て…という、上っ面で、消費を急かされる生活。なんのために生きているのか分からなくなった。自分の存在が数値化され、数の大小で判断されているような感覚が気持ち悪かった。多分誰かが悪いとかじゃなくて、「そういう風に見られている気がする」と思うほかなくなっている自分が一番嫌いだった。
人生一回しかないのだから、どれだけ金銭的に貧しくなっても、好きな場所で生きていきたいと思った。これ以上汚い心を持った人間として生きていきたくなかった。
会社に行けず一週間休んだあと、好きな人たちがいる地域の仕事を探した。どうせなら地方中核都市じゃなく、ずっと遠くに行こう。そこで暮らしている人がいるんだから、私だって生きていける。弱くても自分を好きでいられる強さが欲しかった。

そうして東京を抜け出し、田舎に越してから半年が経った。

心持ち

一年前、私は生きてる意味がよく分かっていなかった。
誰に必要とされなくても生きていこうとする力がある人はいる。友人の一人は「私以外の人類滅びても私は生き残るわ」と話していて、かっこええ!と尊敬する。
実際のところ、私が死んだら悲しむ人は少なからずいると思うのだが、だからといって自分が心から生を求めることはなかった。感動系番組で特集される、難病を患い寿命を宣告された人が必死で毎日を生き抜くドキュメンタリーを見ると、自分の何も無さに吐き気がする。彼らは生きているのだなと思う。生にも死にもなれない私は何者?生きていたい人が生きられる世の中だったらコンビニエンスだろうか。

そういう底を這う気持ちは変わらないのだが、今日、どうしてか明日を生きたい理由ができてしまった。

繰り返される季節の中に身を置きたい。
きみの生きる明日のそばにいたい。
私を囲んでくれている場所が、人が愛おしい。そこで生活していると、保障もないのに、この場所で生きていきたくなる。主語に私がある生活。
同じ人物と思えない変わりように、自分に「すごいね!?」と驚いている。環境が人の纏いを変えるのだ。

奥行き

暮らしを変えて、世界には奥行きがあったことが分かった。
オンライン会議をしていたとき、世界はデジタルだった。音量も明瞭度も何でも自分で操作できるように見えて、空間はずっとずっと窮屈で、息がうまくできなかった。
田舎に移住し、アナログの空気を味わうことができた。広い空、土の手触り、蛙の合唱、雨上がりの空気。それは私が求めていたものだった。
デジタルの思考はもちろん必要だ。土地の測量も農作物の出来高を換金するのも、正確な基準と記録できる道具が揃っているからこそ可能である。
ただしデジタルに使われてはいけない。数字は嘘をつかないが、その数字の集計方法が意図的に操作されていないか、数字は目的のために正しく使われているのかは人間が判断しなければならない。正しいと叫ばれる数字への安住は、堕落の一途を辿ることにほかならない。

この土地の人は、アナログとデジタルの使い分けが無意識にできていると感じる。彼らは野菜の育つ足どりを知っている。土地の長い使い方を知っている。潮時を知っている。そして、自分たちは自然には敵わないことを知っている。
それはとても豊かだと思った。この土地に暮らしてから、閉じこもっていた世界の天井が開けられ、今まで世界だと思っていたものは型抜き菓子のように乾いた音を立てて崩れていった。

淀んだ水の中にいた私も、豊かであれるのだろうか。
以前ジュンサイを採りにため池に行ったとき、水がきれいでなくて驚いたことがある。連れてきてくれた人に聞くと、きれいすぎる水ではジュンサイは育たないのだという。淀んだ水にも意味があるのだとしたら、私は私のままでいていい理由の一つになるかもしれない。

自分しか変えられない

この一年で学んだことは、どれだけ自分に価値がないと思っていても苦しみは拭えないということ。痛みも感情も無にすることは難しい。
そしてもう一つ。自分は自分で変えるほかないということ。誰しも生きるのに一杯一杯で、他人に構ってる暇なんてないよな、くらいの考え方でいったほうが、他人に依存しなくなるし、自分のことも適当にケアできる。
自分と向き合うのは苦手だが、斜向かいに腰掛けて不器用ながらに付き合っていきたい。そうして今晩も一瞥をくれて問いかける。
「ねえ、明日は何をしようか!」


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