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アダルトチルドレンの歴史と意味、自己申告することについて。

心理カウンセリングにおいて、一大ジャンルを形成している「アダルトチルドレン」ですが、noteや簡単なGoogle検索では、意外とちゃんとした情報が載っていなかったり、よく分からないまま自己診断や心理テストが始まってしまいます。

また、自分の問題は棚に上げて「私はアダルトチルドレンです」と言えるんだろ、名乗ったもん勝ちじゃん、という印象を抱いている人もいるのではないでしょうか。

というわけで、バカみたいに本や論文を読み漁る、私(広報室担当スタッフ)の出番です。

そして先に結論じみたことを言うと、
アダルトチルドレンであるかどうか、客観的に決めることはできませんが、自認することがむしろ大事であり回復はそこから始まります。

というわけで、まずは手堅く歴史から見ていきましょう。


「アダルトチルドレン」の成立と歴史

「アダルトチルドレン」という概念はアメリカ発祥です。
そしてその源流はアルコール依存症の治療と研究にありました。

1969年、マーガレット・コークが、アルコール依存症の当事者ではなく、その子どもに着目した研究の始まりとされる『忘れ去られた子供たち(The Forgotten Children: A Study of Children with Alcoholic Parents)』を出版します。

この本の中では、まだ「アダルトチルドレン」という言葉は使われず、一貫して”Children of Alcoholics”が使用されています。

それから10年後、アメリカのソーシャルワーカーであるクラウディア・ブラックによって『私は親のようにならない(It Will Never Happen to Me)』が出版され、ミリオンセラーになります。
この本では「アルコール問題をもつ親のもとで育って成人した人」の意味で、”Adult Children of Alcoholics”という言葉が用いられました。

日本に「アダルトチルドレン」が輸入されるのは1989年、精神科医の斎藤学によってブラックの『私は親のようにならない』が翻訳されたことがきっかけです。
その後、1990年代にかけて、斎藤学や臨床心理士の信田さよ子らによって、「アダルトチルドレン」というコンセプトが広められていきました。

アダルトチルドレン概念の展開

さて、アダルトチルドレンの原型は「アルコール問題をもつ親のもとで育って成人した人」であり、”アルコール依存”に限定したものでした。
それが現在では、ギャンブル依存やDVに苦しむ家庭など、幅広い領域で用いられています。
このような意味の変化はどうして起きたのでしょうか。

それを理解するためのもう一つのキーワードが「嗜癖(addiction)」です。

嗜癖
ある特定の物質・行動過程・人間関係を、特に好む性向をいいます。酒やタバコの物質嗜癖、パチンコやショッピングの過程嗜癖、家族や恋人と生じる関係嗜癖などがあります。

厚生労働省「こころの耳」より

狭義の「嗜癖」は1957年にWHOによって定義された用語ですが、それよりもずっと前から、特定の行動や物質に没頭することが、本人に有害となってしまう現象に対応しようとしていた専門家たちはいました。

精神医学に限らず色々な領域で言えることですが、名前が与えられ、用語がきちんと定義されることで、専門家たちは行動しやすくなります。

アルコール依存も、この疾病用語としての「嗜癖」に含まれ「アルコール嗜癖」として明確な治療対象になりました。

嗜癖には先の厚労省の定義にあるように酒、タバコ、パチンコ、ショッピング、家族、恋人など様々なものや行動、関係が含まれています。
よって、アルコール嗜癖に当てはまる事柄は、タバコやパチンコなど、他の対象にも当てはまるだろう、ということになります。

こうして「アルコール問題をもつ親のもとで育って成人した人」だったアダルトチルドレンは、いつの間にか嗜癖者をメンバーに持つ家族、すなわち「機能不全家族のもとで育って成人した人」にも適用されることになったのです。

家族システム論と、”機能不全”という暴風雨

さて、新しく「機能不全家族」という概念が出てきました。

臨床心理学のいち研究ジャンル、そして理論として「家族システム論」があります。
その名の通り、家族を一つの有機的なシステムと捉えて、起きている出来事や問題を分析する手法です。

家族システム論において、私たちは家庭の構成メンバーとして、各々「父親」「母親」「長男」「末っ子」という役割をこなしているということになります。

逆に、構成メンバーが家族というシステムを維持していくために必要な役割を果たしておらず、それでもシステムを維持しようとすると、当たり前ですが残りのメンバーに皺寄せがいきます。

アダルトチルドレンが生きづらさを抱えるのは、ここに起因します。

家族を繋ぎ止めるべく、そして機能不全家族を生き延びるべく、特異な立ち回りを演じ、それに慣れてしまうと、家を出て、社会生活を始めようとした時に周囲とのコミュニケーションにズレが生じるのです。

毎日誰かが暴力を振るわれたり、自身の存在や価値を否定され続ける中で生きていくこと、生き延びていくことは、暴雨風の中に身を置くことと同じです。
反対に、風のない環境では、過剰に踏ん張ろうとしてしまうと前のめりに転んでしまいます。


アダルトチルドレンを確定できるか?

何をもって「機能不全」と決めるのか

ここまでアダルトチルドレン概念の歴史と、補助線として家族システム論を確認してきました。

アダルトチルドレン
=機能不全家族のもとで育って成人した人

これが、ここまでの整理で導かれるアダルトチルドレン概念の大雑把な定義です。

しかし、定義をしても問題は残ります。

それは、何を持って「機能不全」だとするのか、反対に何がどうなったら理想の「機能している家族」と言えて、それを誰がジャッジできるのか? という根本的な問いです。

アダルトチルドレン概念を広めた斎藤学も、誰もが機能不全家族と判定される可能性があることを認めており、「誰もがアダルト・チルドレン」であるという立場を取っています。

客観的に「あなたは機能不全家族で育ったアダルトチルドレンです」と決められる明確な指標がないこと。
これが、本人による自覚の必要性につながります。


アイデンティティとして仮置きする

臨床心理士の信田さよ子は別の観点から、アダルトチルドレンと本人が自覚することの重要性を説いています。

それは、「私はアダルトチルドレンだ」というアイデンティティを獲得できることの効果です。

例えば、がんを患えば、医師から診断が下り、「がん患者」というアイデンティティが付与されます。
その人にとって「日常生活」は、アイデンティティの変更によって「闘病生活」へと変質します。

闘病生活そのものは苦しいでしょうが、「あなたはがん患者である」という明確な道筋がつけられることで、活用できる制度や政策、理解しておくべき事柄などははっきりします。

しかし、周囲とのコミュニケーションのズレ、度重なる非行、親と同じ依存症に陥る人々には、「自分が何者であるのか」がはっきり示されないまま、「あなたが全て悪い」ということになります。

生きづらさ、苦しさを感じている人にとっては、アダルトチルドレンというアイデンティティを獲得することは、たとえ一時的なものであっても必要なことなのです。

信田さよ子は、アダルトチルドレンを「現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めた人」と定義し、自分で自分を認めることから、アダルトチルドレンの「回復」は始まるとしています。

回復するだけが、人生か。

回復の物語に内在する倫理観

アダルトチルドレンの治療モデルは、いろいろな論者がいますが、おおよそ下記のようなモデルに集約されます。

1. 家族に問題があったこと、自身がアダルトチルドレンであると認める

2. これまで否認してきた怒りや悲しみといった感情を表現する

3. 対人関係の再構築、社会適応へ

自身の生きづらさを解決したくて、心理療法を試すのですから、そのゴールは「生きづらさを解消すること=社会に適応すること」になります。

そのためには、自分のことを自分自身で支えることができるようになることが目指されますが、これは近代以降の理想の個人像とされる自立・自律主義的な価値観が反映されています。

さて、アダルトチルドレン概念の魅力として、「自身の問題を親との関係に起因する」ものだと捉え直すことができる点が挙げられます。
つまり「親のせいにしても良いという免責性」です。

しかし、何でもかんでも親のせいにすることは、現代社会においては白い目で見られるし、自立、自律した個人とは言えません。

「自分の責任を棚上げして親のせいにする振る舞い」は現代の倫理観からは外れているため、あくまで一時的なものに過ぎないのです。


「毒親」概念に求められているもの

ここで一つの疑念が立ち上がります。
「親のせいにしてはいけない」のは、なぜでしょうか。

機能不全家族において、アダルトチルドレン当事者が感じてきた苦痛は本物です。
そこに社会の一般的で健全な道徳規範が持ち込まれることには、やや違和感があると言わざるを得ません。

先ほど「現代社会においては白い目で見られる」と私は書きましたが、白い目で見られようが批判されようが、しんどかったものはしんどいし、許せないものは許せないでしょう。

哲学者の小西真理子と高倉久有は、似た概念として注目されている「毒親」とアダルトチルドレンの関係を整理し、「毒親」には親を一方的に責める傾向があること、それが虐待に苦しんだ子どもたちにとって生きる支えになることを指摘しています。(高倉, 小西 2022)

アダルトチルドレンは、ソーシャルワーカーやカウンセラーといった支援の専門職によって生み出された言葉ですので、どうしても当事者を治療や回復の物語に強制的に回収してしまいます。

その点で「毒親」が用いられる文脈では、個人は治療や回復に向かう気配はなく、一方的に親が断罪されます。
そこに、主体の自立、自律を過度に求めない可能性が存在するのです。

痛みや苦しみに対して、取り除く以外に、抱えて生きる、忘却するなどさまざまな戦略があり、私たちには私たちの在りたいように在るための方法が、どうやら残されているようです。

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