清潔感とお清め

わたしは散歩ついでに神社仏閣に行くのがわりと好きだ。とはいっても、参拝するでもなく、賽銭も投げずに境内をぶらぶらするだけだ。境内では石灯籠の寄進年とか寄進者とかをチェックする。だいたいが寛政より後のもので、大して古いものはない。余裕のある人間が少ないんだろう。たまに貞享より前のものがあると驚く。

境内をぶらぶらしていると、鳥居や門でいちいち頭を下げる人を見かけることがある。そういう人は、まあ当然のように二礼二拍手一礼したり、手水をつかったりしがちだ。面倒くさそうだが、その程度で信心深く見えるのならコスパはいいのかもしれない。手水なんて、柄杓でちょっと水をかけたぐらいで清めたことになる。ちょろすぎると思う。

流水でしっかり洗わないと、手の汚れが落ちない。三年前は盛んに言われていたような気がする。この三年で、わたしは出先でトイレに入るたびに、人が手を洗うかどうか観察するようになった。だいたい2020年の7月過ぎからトイレでしっかり手を洗わないやつが増え始めた。その年の冬にならないうちに、しっかり手を洗う人の方が少なくなった。

しっかり手を洗わないやつの中にも二種類いる。まったく手を洗わないやつと、指先の数センチを水で濡らすやつだ。人間の種類としては、前者の方がまだ好もしい。自分が不潔であることを受け止めている(はずだ)。こういう人間は、トイレを「お手洗い」とは呼ばず「便所」と呼ぶに違いない。なんせ、手を洗わないのだから。

指先の数センチを水で濡らすやつは、さらに二種類に分けられる。濡らした指先で髪の毛を整えるやつと、指先を濡らしたまま去るやつだ。髪の毛を整えるやつは、まったく手を洗わないやつと同類だ。指先を濡らすのは清潔さとは無縁の行為だという自覚がある(はずだ)。こちらの方がまだ好もしい。最後に残る、指先を濡らしたまま去るやつが、わたしは一番きらいだ。

今日、わたしは駅でトイレに入った。そのときは、個室も小便器も全部使われていたので待っていた。すると、小便器の上のところにスマホを置いて、右手で画面をスワイプしながら左手で用を足しているやつがいた。あまりにも驚いたので、用を足した後どうするのかを横目で追ってしまった。そいつは、右手の指先を濡らしてそのまま去って行った。

右手の指先を濡らして、左手の汚れを清める。トイレの神様のお手水は、じつにコスパがいい。

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