見出し画像

詩が人生を、そして言葉を超えること

歌集『ここからが空』を編みながら、抗っていたものがあったとしたら、それは私自身でも、他者でも、社会でもありませんでした。
私が抗っていたのは、言葉によって何かを述べることで、それ以外のものを切り捨てるという、言語固有の力、であったと感じるのです。

言語は、言及したものを的確に拾い上げると同時に、選び取らなかったものを鋭く切り捨てる力をもっています。
人間の創った言語のこの特性は、有限な知覚や思考力をもつ人間らしさの表れであるように思われます。

画像1


子を抱きて夕映えの富士指させばみどりごはわが指先をみる
春野りりん『ここからが空』

ああ!あの美しい富士山を一緒にみて!!
と、思考を超えた感動でおのずと指さすとき、分かちあいたい感動の対象が夕映えの富士であったことが共有されなくとも、
ああ!一緒にみて!!
という心の昂ぶりは伝わったように思います。
だからからこそ、抱かれた子どもは、それまで見ていたものから指先に視線を移したのではないか、と。

夕映えの富士以外のものを切り捨ててまではいない「ああ!」に、短歌というごく短い(けれども、歌人にとっては、時に長く感じられもする)詩歌の言語がどこまで近づくことができるか、という試みが、『ここからが空』でした。

画像2

このたび、式守操さんが「短歌研究室」というHPにて、『ここからが空』の一首

満開のさくらのしたの老夫婦かたみに<今>を写しあひたり

を評していて下さったことに気づきました。
拝読して、ひびきあうものに胸が震えました。
式守さん、ありがとうございます。

また、式守さんには、『ここからが空』の書評もいただきました。

わたしは、本阿弥書店の『ここからが空』を読んで、時間の観念が更新された。
人が時を送る、ということに敬虔になれた。

よい作品とは、その作品に出会うことで、世界がそれまでとは違って見えるようになるもののことだと思いますが、今までにない切り口の評で、私自身にも『ここからが空』が、これまでとは違うように見えてきました。

式守さんの評を拝読し、歌集をこの世に送り出してよかったと、満ち足りた心地になりました。
重ねて御礼申し上げます。


(写真提供:笹渕乃梨)






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?