短歌朗読と即興ダンス
一年前の今日、ダンスのWSで短歌を朗読しました。
主宰は「賢治の学校」に長年携わっていらした演出家の方です。
ひとりひとりの個性が鮮烈で、誰が「障害者」で誰が「健常者」と呼ばれるのか、まるで境目がわかりません。
車椅子やダウン症というのは、そのひとの個性の一部にすぎないとつくづく感じ、私も安心して、何ものにも括られない自分自身でいることができました。
踊り方に決まりはなく、主宰者の言葉を聴きながら自分を解き放って思い思いに動きます。
「はじめてひとに出会うときの瞬間を大切に感じてみましょう」と促されて、参加者と挨拶を交わすように駆けめぐると、体を持たなかったころのなつかしい感覚が甦りました。
ダンスだけでなく、音を感じるシーンもありました。
打楽器系の民族楽器や小学生のころ親しんだ楽器が並ぶ一角は、まるでふしぎな市(イチ)のよう。
好きなものを手にとって車座になると、はるかな宴のはじまりです。
ひとりのために静寂が空けおかれ、そのひとが楽器をひびかせます。
ほかのひとたちは、拍子もなくメロディとも呼べないような、そのひとの深くから発せられる音を聴きながら、心の動くタイミングで、発したい音を重ねていきます。
そのとき、全身で音を感じ、音の奥の呼吸に寄り添おうという感覚が湧き起こるのです。
意味内容の伝達ではなく、そのひとそのものを受け止めようとすることが、会話の原点なのですね。
そして、風と木々が、森と川が、大地と海が会話するのは、技巧的な比喩ではないのだとも実感しました。
『ここからが空』(本阿弥書店)所収の私の短歌朗読を聴いて、三人ひと組で踊って表現する時間も作っていただきました。
まず歌を感じて動き、一緒に踊るひとたちをおたがいに感じて動くと、徐々に三人でひとつのダンスが形をなしていくのが、とても新鮮な体験でした。
四グループに朗読した短歌はこちら。
一輪車の少女両手をひろげつつうろこ雲浮く大空わたる
車椅子を自在に扱ったダンスや、八十歳過ぎのおばあさまの力強くリズミカルなダンスで、広やかな空の世界が表現されました。
踊り終えたおばあさまは「少女、という部分がいちばんむずかしかった!」とおっしゃって笑いを生んでいましたが、衒いのないダンスは少女そのものでした。
林檎煮てわたしを家をけふの日をおほきな秋の果実となしつ
踊り終えたあと「きれいな音楽だった!きれいな言葉だった!読み方がとってもきれいだった…」と泣いて駆け寄ってこられた方がいて、もらい泣きしそうになりました。
(※この一年間に「おどろきました。あなたの朗読は歌なのですね」と多くの方々に言われましたが、振り返るとこれが原体験であったように思います。)
まなうらに闇を満たせりまた明日の光のなかにめざめるために
プロのダンサーをはじめ三人の方々が特別な緊張感で踊り、ひとつの生きたモニュメントができあがるのに立ち会っているようでした。
最後に三人の掲げた片手がひとつになった姿は、ヒロシマやナガサキ、あるいは平和の礎にふさわしい像のように感じられました。
何も手にもたずこの世に生まれたり天よりさゐさゐ地にそそぐ雨
言葉という限界のある世界を通り抜けて、言葉を超えた世界が生まれる感動に、鳥肌が立ちました。
踊り終えた主宰者の「言葉を区切って理解しようとせず、一首まるごと感じたのがよかったのだと思う」という言葉が印象的でした。
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歌集をお読みくださるときに、言葉をひとつずつ理解しようとしなくても、なんとなく全体の響きや雰囲気を楽しんでくださったらと思います。
メンタルコーチの土田純子さんと共催している「短歌を良味トーク(よみとーく)会」でやっているように、声に出して読んでみるのも、ふだんとはちがう味わいがあって楽しいかもしれません。