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ハン・ガンの邦訳作品をすべて読む(全8冊それぞれの短いレビュー)

ノーベル文学賞に、韓国の作家ハン・ガンが選ばれた。アジア人女性がノーベル文学賞を受賞するのははじめてのこと。——報せを聞いて、どうしてかわたしは動揺した。部屋に林立する本棚は溢れかえり、つねに混乱をきわめているけれど、ハン・ガンの一連の著作がどこにあるのかおよそ思い出すことができる。調べてみると、邦訳された本はすべてもっていて、そのほとんどを既に読んでおり、一部はくりかえし読んでいた。そうなると、受賞の報に、喜ばしいだけとは少し異なる新たな戸惑いが生じてくる。

そういった動揺について、書店員の友人とLINEで長々と終わりなきやりとりをしていると、お勧めの一冊を訊かれたので、いちばん好みに合いそうなものを紹介した。彼は外国語と縁の浅からぬひとなので、まずは『ギリシャ語の時間』がよいのではないかしら。死せる外国語を身につけること、失明、そして失語をめぐる物語、きっと気にいるのではないか。——さっそく読む、と彼は言う。それにお店でフェアもやらないと。

ハン・ガンの作品についてほかにもあれこれとやりとりを続けながら、こんなふうにおのずと親しんできた作家の作品ならば、あらためて一望してみたいと思いはじめるにいたった。

そこで、現時点で単行本として翻訳されている八冊の書籍について、以下、一冊ずつ簡潔に紹介する。わたしの友人と同じように、これを機にどの作品から読もうか迷っているひとの助けとなればうれしい。

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ハン・ガンは、散文の表現の精緻さで知られる。日本語訳でそれを読むことの幸福は、その文体の触感をほとんど失うことのないまま、しかしそれでも他なる言語に由来するものとして、訳文を享受できる点にあると思う。原語で読んだことがないのにこんなことを言う資格はほんとうはないし、文体を受け取ることができるのはひとえに訳者の方々の丁寧かつ困難な仕事のおかげであるのだが、それでもそのまま受け取れる、と言ってしまいたくなる。

〈海外文学〉とも〈国内文学〉とも異なる、他者であり同時に自己であるような文体との出会いのよろこびがあり、おそらくそれは、韓国語と日本語の類縁性に由来している。他者であり同時に自己である、というのはハン・ガンの小説の書き方そのものとも関係しているかもしれない。いずれにしても、海外文学としてのハン・ガンをこのような仕方で愉しめるのは、日本語を読み書きするものの特権だとすら言いたくなる。

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国際的にもっとも知られている作品、『菜食主義者』(きむ ふな訳、クオン、2007/邦訳2011年)。マン・ブッカー国際賞受賞作。高く評価されている作品だが、かんたんにひとに勧めることができるものかわからない。この作品における身体のとらえかたは非常にラディカルであり、しかしそのラディカルさにとりわけ希望を見出せないひとにとっては、かわいそうな女の悲劇としてしか映らない可能性をわたしは時おり危惧する。けれども、あなたがよき読者であるならば決してこれは単なる不幸の話には読めないし、それどころか、読むたびに、身体という監獄からひとときばかり抜け出し安らぐことができるかもしれない。

『ギリシャ語の時間』(斎藤真理子訳、晶文社、2011/邦訳2017)は、冒頭でも少しふれたように、死せる外国語を身につけること、失明、そして失語をめぐる物語。死せる外国語と呼びうるのは、ここでいうギリシャ語が現在では話者の存在しない古典ギリシャ語であるからだ。母語という、もうひとつの監獄。外国語に触れたことのあるひとならば、それが決して完全には体に馴染まないことの歯痒さと、同時に母語の外部へ連れ出してくれるかもしれないことへの期待とを同時に潜り抜けたことがあると思う。その先に導かれる古典語の〈中動態〉的な生。失明してからもその裡に巨大な図書館を抱えつづけたボルヘスの精神が、本作のもうひとつの参照項である。

邦訳されている唯一の短編集、『回復する人間』(斎藤真理子訳、白水社、2013/邦訳2019)。ハン・ガンの作品は長さをとわず密かに巧みな構成をとっているとわたしは感じるが、短編ではとくにその巧みさが際立つ。精緻だがわずかに曖昧な散文が重ねられるうちに離れた記述がうすく関係を結び、〈傷と回復〉の物語が浮かび上がる。主題は明白に一貫しているが、執筆時期にはばらつきがあるとのことで、各作品のもつ質感はそれぞれ異なっている。本作におさめられた作品のディテールが、ほかの長編作品とどのように共鳴しているか見るのも楽しい。

『少年が来る』(井出俊作訳、クオン、2014/邦訳2016)は、光州事件(1980年)の綿密な取材にもとづく作品。著者は光州で生まれ、満9歳まで暮らし、事件発生の数ヶ月前にソウルへ移った。これまでの作品の多くは現代の韓国を舞台としてきたが、本作は主に光州事件当時の時代を一人称多視点で描いている点が大きく異なる。物語の大筋は、事件により満16歳で殺害されたトンホという名の少年をめぐって語られる。虐殺や拷問の記述は陰惨をきわめるが、筆致は抑制的に、静謐に保たれる。韓国現代史の時間へ深く潜り込むこの方法は、最新作の『別れを告げない』(後述)でも形をかえて継承されているように思う。

もっとも軽やかな一冊といえる、『すべての、白いものたちの』(斎藤真理子訳、河出書房新社、2016/邦訳2018)。印象的な断章が連ねられ、その文体は、小説とエッセイのあいだのような領域で揺らいでいる(実際のところ、ワルシャワへの滞在も、不在の姉をめぐる記憶も、著者の経験に基づいているという)。文章のモティーフは、〈白〉——といっても、翻訳しづらいニュアンスを持つらしい、真っ白とは異なるヒン——に結びつくものから取られている。おくるみ、うぶぎ、しお、ゆき、こおり……河出文庫版も刊行されているが、単行本では何種類かの紙が本文用紙に用いられ、さまざまな〈白〉の風合いが慕わしい。

2024年10月時点での最新刊であり、フランスのメディシス賞を受賞するなど高く評価されている『別れを告げない』(斎藤真理子訳、白水社、2021/邦訳2024年)。済州島4・3事件(1948年)を取材し、渦中の時代を生きた女性の記憶や記録をたどる。凄惨な事件は直接的に物語られるのではなく、現在を生きる身体のヴェールを通して触れられ、隔たりを保ちながらその輪郭をあらわにしていく。もとは別の作品として構想されたという現代のふたりの女性と一羽の鳥をめぐる極限の物語が、死者の言葉や愛情と呼応しながら作品全体の骨格をなしている。韓国現代史への沈潜と、私的で繊細な語り口が交錯し、彼女らとともに夢を見ながら深い痛みの記憶にふれているような心地がする。

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小説のほかに、エッセイ集と詩集が一冊ずつ、邦訳されている。『そっと 静かに』(古川綾子訳、クオン、2007/邦訳2018)は、主に歌にかかわるエッセイがおさめられたもので、韓国での刊行時期は『菜食主義者』に近い。後半では、著者自身が作詞作曲した曲に寄せられた文章が収録されている。著者の歌声をおさめたWebサイトへのリンクも付されており(文体を裏切らぬ肉声——)、小説にとどまらない著者の制作の幅広さを窺い知ることができる。

『引き出しに夕方をしまっておいた』(きむ ふな・斎藤真理子訳、クオン、2013/邦訳2022)は、ハン・ガンが長らく書き溜めてきた詩作品の集成。ハン・ガンは『ソウルの冬』などの詩の連作により「文壇デビュー」を果たしたが(1993年)、そのあと小説家となったため、発表された詩は数少なかったという。本書には最初期の詩作品にまで遡って収録されており、日本で単行本化されているなかでは著者の最も古いテクストであるのではないかと思う。巻末には、韓国における詩の受容に関する、きむ ふな・斎藤真理子両氏による対談がおさめられている。

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こんなふうに駆け足で全ての邦訳について書き記すことが、いかにも荒っぽい仕事であることはわかっている。より深いところまで紹介しようとするならば、当然ながら、ゆっくりと読み直してから取り組まなければいけない。けれども、ノーベル文学賞の受賞という報せは、ひとつの祝祭をたちどころに呼び起こすに違いないのだから、偶然にもたったいますでに全ての著作を読んでいたことの幸運を、急いででもどなたかに分け与えることができればと思い、海外文学の愛読者のひとりとしてこの文章を公開する。

ハン・ガンさんに、そして日本語での作品紹介に尽力された翻訳者ならびに版元の方々に敬意と祝意を表します。また、「世の中では戦争が激しく、毎日遺体が運ばれていくのに、何の宴会をして楽しく記者会見をするのか」(朝日新聞デジタル)との考えで、本人による記者会見は行わないという著者の方針に共鳴し、ガザをはじめとする各地の非人道的な攻撃をただちに収束させるよう求めます。




20241014 追記
単行本(単著)以外でハン・ガンの短編が読める書籍を追記します。

「京都、ファサード」(斎藤真理子訳)『小説版 韓国・フェミニズム・日本』(河出書房新社、2020年)所収(2022年に文庫化)

「私の女の実」(斎藤真理子訳)『ひきこもり図書館 部屋から出られない人のための12の物語』(頭木弘樹編、毎日朝日出版、2021年)所収 ※『菜食主義者』の原型となったと言われる短編。


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