見出し画像

無花果の愛|短編小説

 かぐわしい食べものの香りと、人々のさざめきに溢れた空間。温かみのある木でできたテーブルと椅子。男が初対面の場に選んだ店はまさに、ムードがある、と言うに相応しいところであった。その男がお手洗いに立ったタイミングで、溜まった通知を消化しようと千晃(ちあき)は自身のスマホを手に取る。顔認証で画面を開き、その瞬間目に飛び込んだ文字に思わずえ、と声を漏らした。

――今日なにしてるーん?

 少し考え、一旦未読のまま放置して他のメッセージに返信を送ることにする。その作業を終えてちらりとお手洗いの方向に目を遣ったが、まだ戻ってくる気配はない。ワインを一口含んで気持ちを落ち着けて、未だ既読を付けられない画面を見つめた。通知は7分前。用件の予想はつく。どうせ家に来ないかという誘いだろう。郁也(ふみや)の誘いは毎度唐突で、千晃はいつも翻弄されている。そしてそこから脱出しようとする第一歩として、今ここにいるのだった。タイミングの良さに小さくため息をついて、返信する。

――飲みに来てるよー。

 どうしたん? といつもなら続けるところだが、ぐっと堪えた。それをしていては、今までとなにも変わらない。テーブルにスマホを置いたタイミングで前の席に男が戻った。
「お待たせ」
 千晃は素早く笑顔を作って迎える。男も爽やかな笑みを浮かべて席に着いた。時刻は19時半。男も千晃もある程度腹が膨れ、それぞれワインを3杯飲んで少しほぐれてきたころである。飲み始めて1時間半経つのにワイン3杯というのは普段の千晃からすると遅すぎるペースなのだが、初対面なのだからこれくらいが妥当だろうという判断で抑えていた。
「千晃ちゃんはさ」
 目の前の男――名は確か裕大(ゆうだい)といった――が、まだ少しぎこちなさの残る笑顔で切り出した。千晃は普段より丁寧に化粧を施した目で彼を見つめる。口角を上げ、目に微笑みの色を乗せるのも忘れない。こういうのは得意なのだ。けれど今は脳裏に郁也の顔がちらついて、感情の籠め方が足りないかもしれない。
 繰り出される質問に答えつつ、千晃は目の隅にスマホの画面を捉え、通知が浮かばないか気にしていた。
 目の前の男は、そつなく無難に会話を運んでいる。ペースは話しやすいし感じもよい。けれど千晃はこの場に飽きてきている自分に気づいた。気づいて内心で舌打ちした。郁也のせいだ。郁也が脳裏に浮かばなければ、きっともっとこの場を楽しめたのに。
 男がどんな話題を持ってきても、郁也と会話する方が面白いと思う。男がどんなにいいペースで話しても刺激が足りないし、心が浮き立つのを感じられない。
 当たり前だ。目の前の男とは今日が初対面で、郁也とは1年も付き合いがあるのだから。お互いの会話のペースも知っているし、共通の話題も多い。何より情がある。そのふたりを同じ土俵で比べることがちゃんちゃらおかしいのだ。
 視界の端でスマホが光った。胸がきゅっとなり、意識と感覚が鮮明さを増す。内心そわそわしつつ急に色付いた会話を続け、きりの良いところで手洗いに立った。もちろんスマホを持っていく。

――いいなー。
――だれと?

 2通連続で来ていたメッセージを見て、千晃は顔が緩むのを自覚した。だれと?と郁也に訊かれるのが千晃はすきだ。気にされている感じがして。
 現在時刻を確認すると、20時だった。もういい時間だろう。

――友達!
――まあぼちぼち解散すんねんけどな~

 勢いで送信。これが、誘ってもいいよの合図になっているのは重々承知している。自分がこの画面の向こうにいる相手から逃れるためにこの場に来ているのも分かっている。それでも衝動は抑えられなかった。
 素早く化粧を確認して、席に戻る。男は手持無沙汰にワインを飲んでいた。スマホを見たりしていないのは好感度が高い。高いけれども千晃の気持ちはもはやここにはなかった。
「ただいま」 
 と、にっこり声をかける。
「おかえり。どうする?ワイン頼む?」
 千晃のグラスには申し訳程度に赤い液体が残っているだけだった。彼のグラスも空きそうだ。
「うーん、わたしは大丈夫」
 目尻を下げて口許で微笑む。
「そっか。じゃあ俺もやめとく」
 にこりと笑った顔は感じがよかった。切れ長気味の目元や通った鼻筋、薄い唇、イケメンと言うのは10人中3人くらいであろう顔立ちだが、千晃は好みである。それでも、にっこり笑い返してグラスを空けた。
 会計は男が支払った。財布はあからさまなブランドをアピールしたものではなくシンプルな革製品で、お、とちょっと目を開いた。ブランドものよりも味のある革が、千晃はすきなのである。
「そのお財布、いいですね」
「あ、これ? 親から就職祝いにもらったから、もう10年近く使ってる」
「すごい! 物持ちいいんですね」
 純粋にお世辞抜きで賛辞を送る。男は嬉しそうに微笑み、価値観合いそうかも、と千晃は思った。
「この後どうする?」
 店を出たところで男が言った。千晃はちょっと考えるそぶりを見せた。
「うーん、わたし明日予定あって朝早いんですよね……」
 残念そうに語尾をしぼませる。半分はパフォーマンスだが、実際、もう少し話したいという気持ちは芽生えつつあった。男の視線が少し彷徨った。
「そっか……。そんなら今日はもう解散にしよ! またごはん行ってくれる?」
「もちろん!」
 改札まで送ってもらって別れる。最後まで感じのよい男だったし、お店選びのセンスもよかった。全体的にいい感じだった、と思いながら電車に乗る。

――時間あるんやったら俺んち来る?
――(笑)
――スタンプ

 10分前に来ていたメッセージ。首を傾げるうさぎのスタンプに微笑み、返信を打つ。

――(笑)
――暇やし行くわ(笑)
――なんか欲しいもんある?

 自宅の最寄り駅で降車し、自宅と反対方向に歩を進める。リクエスト通りにコンビニでスイーツとお酒を購入。
 もはや見慣れたマンションでインターホンを押し、エントランスを通過する。部屋から顔を出した郁也は、「おつかれ~」と言ってコンビニの袋を受け取った。
 靴を脱ぎ、「おーうまそう」と言いながら部屋に向かう背中を追いかける。相変わらず殺風景な部屋。
「あ、ワイン買ってんで」
 得意げに笑う郁也は王道のイケメン顔である。千晃の苦手な。
「おー、さすが、ありがとう」
 千晃はどんなお酒よりワインがすきだ。それを郁也はよく知っている。リクエストでレモン酎ハイを買ってきたというのに、ワインで乾杯をすることになった。
「なに食べてきたん?」
「イタリアン」
「珍しく写真送ってこーへんかったやん」
 千晃は笑った。郁也にはよく食べたものの写真を送るのだが、今日はさすがにしていない。郁也のちょっと拗ねたような顔や質問に、儚い心地よさを感じる。
「写真撮るタイミングなかってん」
「ふーん。あ、なあ、デザート食べよ」
「開けえや」
 笑って、袋から買ってきたデザートとスプーンを出す。
 郁也と話すのは楽である。ほとんど気も遣わない。取り留めのないことをずっと話していられるし、沈黙があっても苦痛にならない。真面目な話もふざけた話もできる。
 ぐだぐだと2時間ほど飲んで喋り、目元の赤くなった郁也は千晃を抱き締めた。胸のあたりに置かれた郁也の頭を、千晃はよしよしと撫でる。そしてベッドで抱き合う。郁也の堀りの深い顔が歪む瞬間を見るのが、千晃はすきだ。千晃を強く抱き締めて息を荒げているのを感じるのがすきだ。終わった後、腕枕されながら彼の胸に頭を預け、無防備に寝息を立てている彼を眺めるのがすきだ。
 一緒にどこかに出かけたことはない。このふたりきりの空間だけが、ふたりの世界だった。
 千晃は今年28歳になる。いつまでもこのままではいられない。そう思って始めたマッチングアプリで、今日の男と出会った。出会ったのに郁也に呼ばれてきてしまった。その事実に虚しさと切なさと少しの安心を感じながら、千晃は郁也の腕から抜け出そうと動いた。
「ん……」
 小さく郁也が声を漏らして、千晃を抱き締めなおす。まるで行くなと言われているようで、千晃は息が止まりそうになる。歓びが高じてなのか苦しくてなのかは分からない。
「どこ行くん……」
 うっすらと目を開けて郁也が問う。
「どこって……、わたしこのまま寝るわけにいかへんし」
 うーん、と小さく唸って郁也はもう一度、今度は両腕で千晃の肩を抱きなおした。半分しか開いていない寝ぼけまなこで千晃を見つめる。
「話したいことあるし起きるわ」
 千晃の頭に疑問符が飛ぶ。話したいことあんのに寝てたん?てか話したいことってなに?
 疑問符のあとには不安が立ち込める。その不安を押し、起き上がった郁也に従って起き上がる。寝室を出るそぶりだったため、衣服を身に付けて一緒にリビングのソファに戻った。ふぁあぁぁ、と大きくあくびをした郁也の様子はいつもと変りないのに、千晃の動悸は激しい。
 分かっていた。いつか終わりがくること。そうなるように準備してきたし今日も男に会ってきた。だから大丈夫。なんでもないように振る舞える。
 自分に言い聞かせて千晃は待つ。郁也はいつも通りまっすぐに千晃を見つめた。千晃もいつも通りにその目を見返す。若干の疑問を――不自然でない程度の、縋りつかない程度の疑問を込めて。
「俺考えたんやけどさ」
「うん」
「てかいまさらやねんけどさ」
「うん?」
「俺らって結構会ってるやん」
「まあ、うん、せやな」
 郁也が深呼吸した。千晃は覚悟を決める。
「もうさ、結婚せえへん?」
「……は?」 
 千晃は反射的に声を返し、目を見開いた。頭が真っ白になっている。イマナンテ?
「いやびっくりしすぎやろ」
 郁也が笑っている。なぜ笑っていられるのか、千晃にはさっぱり分からない。エ?ナンノハナシシテルン?
「……いや、うん…。そらびっくりするやろ…」
「俺がさ、安心できる相手がいい、みたいな話したの覚えてる?」
 千晃は頷いた。郁也との会話はほとんどすべて覚えている。おそらく彼よりも。
「今さ、一緒におっていちばん安心するのは千晃なわけよ。一緒におって居心地いいし、なんかもう気遣わへんし、喋ってて楽しいし」
 郁也の声が遠くに聞こえる。そんな表現小説の中でしか知らなかったけれど、こういう時、声は本当に遠くからに聞こえるもんなんだなあと思う。
「もう歳も歳やしさ。自分だって、結婚したいって言うてたやろ?」
 千晃はまた頷いた。そう、千晃は結婚したいのだ。だからその未来を探すために今日でかけた。デ、イマドウナッテルンダッケ?
「やから、って思ってんけど、どう?……ですか」
 とってつけたような語尾がおかしい。真面目な顔もおかしくて、千晃はすべてを混ぜっ返したくなる。
「うちら、言うたらセフレ、よな?」
 今まで関係性の確認なんてしたことがなかった。しなくてずるずるとここまで来ていた。郁也はんー、と鼻から声を出しながら前髪をかきあげる。
「セフレ、まあ、セフレなんかもしれへんけど、ちゃうやん、友達以上、やん」
 途切れ途切れの言い方がまたおかしくて、千晃はとうとう笑って、続けた。
「デートもしたことないしさ」
「いや、ワイン飲みに行ことか言うて確かに行けてへんかったけど。前言うてた温泉とかだって、行きたいんやったら連れてくやん」
 随分前にワインだの温泉だのに行きたいと言ったことを覚えていたのがおかしくて、千晃はふふふ、と笑った。同時に、デートとはきっとそういうものではないんだよ、と思った。郁也はちょっと不貞腐れたような顔をしている。ここで話が流れたらそれまでだな、と千晃は笑い続けながら直感する。
 ややあって郁也はその表情のまま口を開いた。
「で、どう?結婚、する?」
 千晃は目尻を爪先で拭って、笑いを止めた。郁也の目はまっすぐ自分を見つめている。彼の心理が手に取るほどよく分かって、それは今までもずっとそうで、きっとこれからもそうなんだろうと思えて、その目を見返した。
「ーーうん。結婚、する」
 そのまま笑う。千晃のいつもの、目がなくなる笑い方。口を横に広げて、上の前歯で下唇をちょっと噛む、いつもの笑い方で。そして一瞬反応を躊躇した郁也に向かって、両腕を広げた。郁也は安堵と困惑が混じった表情のまま応えて両腕を広げる。そのまま抱き締め合って、千晃は郁也の頭を撫でた。呟くように言葉を落とす。
「ありがと」
「うん。……ってなにが?」
「なんか、ありがとーって思っただーけ」
 抱き締め合ったまま笑う。郁也といると、千晃はよく笑う。愚痴を話していても最後には笑う。泣いていても、最後は笑う。そんな人生であればいいなと思う。


「いつ婚姻届出す?」
「いやその前に挨拶ちゃうの」
「そうだけど、時期は決めようや」
「わたし面白い日付がいいなあ」
「え、面白さいる?」
「いるいる。ちょ、どんなんあるか調べるわ」
「えー、まあ好きにしたらいいけど」
「ふふふ」




【完】


読んでいただきありがとうございます❁¨̮ 若輩者ですが、精一杯書いてます。 サポートいただけたら、より良いものを発信出来るよう活用させていただく所存です。