自分はどう生きたいのだろう '21/5/8~14
1年前の日記を引用し、それにコメントしていきます。
(1年前:理系修士2回生/現在:社会人1年目)
自己実現
なに生意気いってんだ去年の俺。学力がない=能力がない、ではないし、学歴至上主義過ぎる。反省しろ。
果たして自分には、「なりたい自分」「理想」はあるだろうか。それこそ「学歴至上主義」の価値観に縛られていた期間が長く、「学歴を手に入れる」の先がないままに生きているのではないか?改めて、自分の人生の軸について考える必要がある。かつては、毛嫌いし、馬鹿にしていた「自分探し」、本当は自分にとって極めて重要なことなんじゃないか?「自分なんか探しても何も見つからない」とかつての俺は言った。しかし、それでも自分とは一体なんなのか、それを考えること自体に価値があるのではないか?そして、自分を発見したいからこそ、こんな自分の日記を読み返すような行為をしているのではないか?
なあ、俺。お前は一体何者だ?
散歩
当時は哲学の道とか散歩しに行けてたもんな。そら散歩行くよな。なんか、東京の郊外を散歩してても全然わくわくしない。
上京してから、チャットモンチーの「いたちごっこ」の歌詞がぶっ刺さる。
もう中学生
ホントにブレイクしたねぇ~
よかったねぇ~
靴下
幸か不幸か、誰もお前の足元なんかに興味はない。
よかったな。
アイドル
アイドルって、やっぱりタバコはだめなのかな。タバコ吸ってるアイドルおもろいけどな。調べたらおるんかな。
銀河鉄道の夜
ちょうど、輪るピングドラムの映画を見てきたところなので、1年前の自分とシンクロして面白い。
最近は、ジョバンニの自己犠牲により、助けられてしまったザネリについて考えてしまう。悪童ザネリはこの経験により何かが変わったのだろうか。何らかの改心により善人となり、ジョバンニから受けた利他を、他の人へ受け渡していっているのなら、安直ではあるがいい話だ。
しかし、自分がザネリだったらどうだろう。どうしたらいいだろう。人の死を背負い、命2つ分の価値のある自分の命の重さに耐えられるだろうか。いっそ、死んで逃れてしまいたいほどの苦しみがあるのではないだろうか。しかし、人の命に助けられてしまったがゆえ、「自殺という救済※」にすがることすらできない。自分がザネリだったとしたら、本当の幸いの実現を目指すことができるだろうか。
※決して自殺は推奨しません。人はただ居る、それだけで価値があるのだから。この世界に神様がいたとして、その神様が沈黙を保ち続けているのだとしたら、全ての人間は、あらゆる個性や属性は、つまりはあらゆる多様性は、神がその存在を許していると考えていい。全ての人間はこの世界に居ていい。自殺ではなく、「自分はこの世界にいてもいいんだ」という形で救済されることを祈ります。
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