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出会うまで

ルカとは、似た者同士だった。

初めて友達の家で会ったとき
笑顔の可愛い人だなと思いはしたけど、
「人間」に興味はあっても
身近にいる人々に特に興味を持つことのなかった私は
新しい知り合いが増えたことを
嬉しいと思っただけだった。

ルカの方は、私に何かを感じていたそうだ。

それまで10年以上、
女の子たちとデートしたことはあっても
恋人ができたことはなく
つくろうとも思っていなかった自分が
こんな気持ちになるなんて
この女性は、
ただ目の前を通り過ぎさせてはいけない
と思った、って。

カンのいいルカの方が、私に同類のニオイを感じていた 
ということだったのかも知れない。

後になって分かったことは、
私たちの共通点は「寂しさ」だったみたい。
家族の中での。

両親は共に揃っていて
毎日食事と、寝る場所を与えてくれていたし
病気の時はお医者さんのところへ、ちゃんと連れて行ってくれていたけど

祖母が一緒に住んでいた時はまだ、
楽しかった思い出もあったけど

私にとって家族は、
家族というより「同居人」で
常に様々なことを命令してくる人たちで
いつも他の誰かと比べては
私を「出来損ない」と呼んで

私がどれほど劣った、至らない人間であるかについては懇切丁寧こんせつていねいに教えてくれるけど

私が何か努力して成し遂げたものがあっても、それが注目に値するものとは、思ってもらえなかった。

自分が家族に愛されているなんて、子供の頃から感じたことはなかった。
彼らと心のつながりなんて、一度も感じたことなんかなかった。

ルカのお母さんも
イタリアの普通のお母さんたちとは違って
あまり子供を抱きしめたり、
キスしたり、
「ママの宝物ちゃん、こっちへおいで」なんて言って
可愛いがったり、甘えさせてくれたりは、全くしない母親だったそうだ。

ルカは12歳頃から、自分の意志で
放課後に近所の店で使い走りの仕事をしてお金を稼ぐようになり、
そのお金で遊び仲間たちに切り売りのピッツァを奢ってあげたりして、
外での「自分の居場所」「自分の評価」を小さい時から自力で作るような、
自立心の強い子供だったという。

今でもずっと仲の良い彼の幼馴染たちは、
「ルカは子供のころから、俺らのなかでは年齢はいちばんチビのくせに、とてもしっかりしていた」
と私に話してくれた。

家では、母親やお姉さんに威張って命令するような、生意気な末っ子だったらしい。

甘えたくて愚図るのではなく、
逆に虚勢きょせいを張って
わざと冷たく、生意気に振る舞うことを選ぶタイプ。

私は女だったから
同じような態度をとって、両親にますます叩かれたけど
(フィジカルでもメンタルでも)

ルカは男だし、
父親や長男に従う というのは
南イタリアのその土地の文化でもあるらしく
お母さんもお姉さんも、女性たちは顔をしかめながらも、
いつも末っ子である長男が要求する通りに動くのが、常だったとか。

ルカのお父さんも、頑固な家長といった風情の、一般的にイタリアでよく見かける
「妻に優しい夫、娘に甘い父親」なんかとは、全く違う人だった。

厳しい顔つきをして
妻には命令口調で話し、
何処へ行くとも告げず、一人で黙って外に出掛けて行く。

それでも私には、まだ笑顔を見せてくれてはいたけれど。

私はといえば
ほとんど何もしゃべらない
良く言えば 大人しい
部屋の隅で一人でずっと、本を読んでいるような子供だった。

学校でも目立たず、特に問題を起こすわけでもなく、
ただ淡々と日々を生きていた。

親が私に話しかけるのは、何かを命令する時や、何か小言を言うとき。
どこか苛立ちを含んだような強い語調か、
小馬鹿にするような、意地悪い語調でしか、語りかけてもらった記憶がない。

あそこの家の◯◯ちゃんは子供らしくて可愛いのに、お前は仏頂面ぶっちょうづら愛嬌あいきょうがない。
可愛げがない。

いつも苦々し気に言われていた。

育てる楽しみが全然ない、育て甲斐がないって。
お前みたいな可愛げのない娘は一生、誰からも愛されない、結婚なんかできるわけないって。

そのくせ、人目があるときには
母は急に、私の名前を
猫撫で声で「ちゃん」付けで呼んだりして、
私は冷めた目でそれを見ながら
「こんな女にだけはなりたくない」って、
いつも思ってた。

可愛げがないのはその通りだったと思う。
強情で、ひっぱたかれても泣きもしない。
ただ黙って睨むだけ。

遊んでくれる友達も、学校の友達もいて、
可笑しい時はちゃんと笑える子供だったけど
私は誰にも関心がなかった。
人生はちっとも楽しくなんかないけれど
それが普通で、世の中ってのはそういうものなんだと思ってた。

ルカは19歳のとき、一緒にバンド活動をしていた幼馴染たちと地元でインディーズのレコードを一枚出すと
仲間の発案で、
皆でフィレンツェに行って音楽活動を続けよう
という話に、乗ることにした。

父親とは大喧嘩の末の、家出同然の出発だったって。

「どうせ金が無くなれば、すぐに帰って来る」
そう父親に馬鹿にされたルカは
後で、本当にその言葉通りに故郷へ帰って行く仲間や
親が迎えに来て、親と仲良く一緒に帰って行く仲間たちを見送りながら
自らは父親に対する意地だけでフィレンツェに残り、
フィレンツェで正規契約の仕事を見つけ
(イタリアでこれがどれほど難しく、また幸運が必要な事か…)
それから10年以上、
たったひとりで淋しさを抱えながら、頑張って生活していた。

一人、故郷に戻らずに残った仲間もいたけど、
その仲間は恋人を見つけ、恋人とフィレンツェの隣町へと引っ越して行き、ルカとは何となく疎遠そえんになっていったそうだ。

私が思春期に、親にかなり反抗的になっても、いわゆる非行に走らなかったのは
私の目にはそういう行為が、絶望的に格好悪く見えていたのと、
おばあちゃんが大好きだったので
「大人側」にいるおばあちゃんに、迷惑をかけたくなかったからだ。
戦前、戦中に教師をしていて、ご近所でも尊敬されていたおばあちゃんの名誉を、
孫の私が汚すわけにはいかなかった。

本があれば、何とかやっていけた。

さまざまな世界があることを私に教え、
それらを垣間見かいまみさせてくれる本や
家族が寝静まってから、ひっそりとイヤホンで聴く音楽たちが
私を支えてくれていた。

子供の将来を心配する母は、私が小学生の頃
私の勉強を、とても熱心に見てくれていた。
覚えが悪いと、髪をつかんで椅子ごと床に叩きつけるほど熱心に
見てくれていた。

私は声をあげて泣く子供ではなかったけど、
ふすまを閉めた奥の部屋でも、母の怒る声や物音は聞こえていたと思うのに
それ以外の時でも
目の前で私が平手打ちされていても
いつも私が悪かったからなのかもしれないけど
父親も
おばあちゃんでさえも
私をかばってくれる大人は、一人も居なかった。

下の子たちはそこまで熱心に勉強させられてはいず、
私は第一子だったから、
お前はお姉ちゃんなのだから下の子たちのお手本にならなければいけない
お前の成績が良ければ、下の子たちはお前を見習うようになるのだ
と言われていた。

母の指導のおかげか
きょうだい達の中で私だけが、親の期待に何とか応えられる学力を保ったらしく、
両親は私に、大学受験をさせてくれた。
私のためというより、子供が複数いるのに一人も大学へ行かないのは、彼らの不名誉になるからだ。

でも数年後、家の経済状況が悪くなり
専門学校に通いたいという長男の学費の方を優先させるために
私は大学を途中でやめて就職し、家計を助ける役目を負うことになった。

男の子の学歴は女の子より大事なんだし、
お前も大学に通う経験が出来たのだから
もう満足しただろう と言われた。

私は、大学をただの経験のための場所だなんて、思っていなかった。

私なりに将来の夢を持っていた。
その夢のために
出来ればアメリカの本校メインキャンパスか、
トランスファーして別の大学で、
専門課程への学部進学を望んでいた。

「でも」と思った。

「これで終わりというわけじゃない。
自分で働いて、お金を貯めて、
自分のお金で大学に戻って
やりたかった勉強をまた再開すれば良いんだ。」
そう思って、働くことに同意した。
(実際、私に選ぶ権利などなかったけど)

それでも「中退」だけはどうしても嫌だったので、親に時間をもらい
その後の数ヶ月セメスターで必死に勉強し
必修科目だけは全て修了して
準学士号卒業というかたちで、卒業資格を得ることが出来た。

勉強しながら就職活動もして、
運良く内定をもらえて

働き始めるとすぐに、
大学に戻るための貯金をはじめた。

幸い、お給料の全てを家に入れろとは言われず、毎月決まった額を親に渡せばよかったから、自分のための貯金は出来た。

仲の悪い家族の家にずっと一緒に住んでいたのは
貯金のためと、
それでも一緒に暮らしていれば、いつか映画やドラマみたいに
心が通い合う時もあるんじゃないかと
切なく思っていたから。

ふだん、表面的には、普通の仲良し家族のように振る舞っていた。
私も両親も。きょうだい達も。
白々しい演技なら、今でも上手に出来ると思う。

その後、仕事は一生懸命にしていたけど
仕事の環境で身体を壊して、一度退職したり
いくつ履歴書を送っても
再就職が出来なかったり
良い就職先と巡り合うことが出来ず

なかなか思うようにはお金は貯まらなくて
私は年をとっていくばかり。

その頃になると
世間の娘さんたちは皆良い人を見つけて結婚していくのに
お前は何をしてるんだ! と
家族との関係も悪化していくばかり。

親は私の復学の意志なんて知らなかった。
そもそも私が何を考え、何を望んでいるのかについて、関心が無かった。

一方私は、やり残した事を心に抱えたまま人生の次のステップを考えることなんて出来なかった。
自分はまだ大学を終えていない、という感覚が、ずっとあった。

お互いに対する不満を募らせるばかりの日々のなか
とうとう私と親との間に、決定的なことが起こり
私は 幻想から覚める時が来た 
と認めない訳にはいかなくなった。

もう何も 待つものはない。
ここに居ることに もう意味はない。
ここに居たら 私は潰される。

そう思って

大学に戻るために貯金していたお金を使い、外国へ行くことにした。

「お前みたいな出来損ないは社会で通用しない」
子供の頃からずっとそう言われ続けていたし
親の言うその「社会」とは、
とりもなおさず「日本社会」だろうし、

じっさい社会人になって
普通に仕事はしていても
私自身がここに帰属しているという感覚、
私はこの文化圏に受け入れられている、という感覚も特になかったから、
迷いはなかった。

誰にも 何も話さず、
密かに留学準備を進めた。

週に一度、会社の後に語学学校へ通い、
現地でも使える銀行のことなどを調べた。

「高飛び」の用意だった。
あいつらが、これ以上私に関わって来られないほど遠くに、
簡単には、連絡がつけられないほど遠くに…

世間では、何か立派な理由がないと外国なんかに行く人はいない
という風潮があったので
美術を勉強したいとか何とか、同僚や上司には適当に言って、納得してもらった。
(それは嘘ではなかったけど)

約1年かけて全ての準備を整え
航空券も用意して
会社を辞めた日の夕食の席で
私は家族に言った。

「わたし、ヨーロッパに行くから」

予想通り罵詈雑言ばりぞうごんが返ってきた。
お前はバカか、何も出来ないくせに。
外国なんてもっと若い時に行くもんだ
お前はもうオバサンじゃないか、笑わせるな。
グズな上に頭の悪い、お前らしい考えだ…

ただ息をつきたかっただけで
美しい美術に触れること以外、
他に期待していたことなどなかったイタリアは
明るい笑顔で私を迎え入れ、
新鮮な空気を、深呼吸させてくれた。

何も期待していなかったぶん、嬉しい驚きだった。
初めて、自分が人間として 
生き始めたような気がした。

陳腐なことは言いたくないけど
私が、それまでの人生のすべてから逃げ込むように選び、降り立ったのは、
私にとっては本当に〈再誕生の街〉だったんだ。

最初の留学のあと一度日本に帰国したのは
そのまま居続けることは違法になると知ったから。

非合法なことはしたくなかった。
いつでも顔を堂々と上にあげておけるようにすることが
自分に対する 自分の責任だと思ってた。

最初にヨーロッパ行きを告げたとき
行くなら親子の縁を切って行け
と言っていた親たちも
私が一度帰国したことは嬉しかったらしい。

呆れたことに
ご近所に自慢気に話していたらしいよ、
「娘がイタリアに留学中でして」って。

だからなのか何なのか
彼らの私への態度も、少しは変化していたから
両親の家に居ること=臥薪嘗胆がしんしょうたん
の気持ちは変わらなかったけど、
私はもう少し日本で働いてお金を貯め、
今度は長期で旅立った。

いっさい、心に何の期待もしないまま
事務的に両親と接する方が
自分の心がこんなにも楽なんだと、やっと学んだ。

二度目のイタリアで
濁った水しか知らなかった小魚が
ようやく
きれいな水のなかに放してもらえたように

自由と、五感が伝えてくるさまざまなことを
喜びも、痛みさえも「じぶんの生きている実感」として愛おしく感じながら
流れに身を任せるように時を重ねていくなかで
ある日、
ルカが私を見つけた…


書いたものに対するみなさまからの評価として、謹んで拝受致します。 わりと真面目に日々の食事とワイン代・・・ 美味しいワイン、どうもありがとうございます♡