Layla

忘備録

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最近の記事

既存の飛躍アンソロジー

既存の飛躍消化不良のような、毎瞬毎瞬の思考連続体に対してフラッシュが挟み込まれるような違和感と気持ち悪さ。 これは素晴らしい感覚サインだ。 それは固定化された回路が溶解している。 器の中で液状になる蛹状態だからである。 ずっと旅立たない雛はいないように、蛹のままなどありえない。目には見えない領域での変容が起こっているのだ。それは理解の受胎である。 この時の飲み込みにくさ、鬱屈した消化時間は自己形成においてかなり重要。そのサインを「不快さ」で打ち消してしまってはもったいな

    • たびのきおく

      3月と4月は自由に結構にやらせてもらう。と思ったらスリランカ、バリ、そして国外とはいかずとも日本をウロウロするという事態。こんにちは。 幼女月間なるものを遂行している私。 振り切れているほど、出てくるわ出てくるわ。 「もうたくさんだ!!!」という前のめりで愉快で聖なる逆ギレをしているのだ。 幼女は「好き嫌い」しか言わないので理解しやすい。まずピンクの頭にして、スリランカにいき、そしてそのまま日本について6時間でバリを決めて、家に帰らず神戸に泊まり、芦屋の家を解約手続きをし

      • 色と空とシャーマンと

        色即是空、空即是色。 この古代から伝わる仏教の教えは、物質世界と無形の宇宙、すなわち「色」と「空」が実は不二の関係にあることを示しています。この哲理は、私たちが日常経験する現象の全てが、宇宙の根源的な空虚性と不可分であるという深遠な理解を促します。 シャーマンやヒーラーとしての役割は、この深い真理に光を当て、人々が自らの煩悩や限定された認識の檻から解放され、真の自由へと導くこと。 『ヨガバシシュタ』の教えによれば、すべての想念を手放し、観世の立場から全てを見ることで、私

        • 聖と生が出逢う場所

          生きるという行為が尊貴なるものへと変貌を遂げるのは、我々が内なる感覚に耳を傾け始めた瞬間である。日常における摩擦の音、皮膚に触れるさまざまな感覚が、かつては不快の象徴であった。しかしながら、これら一切が等しく美しく、愛おしく、そして究極的には愛そのものであるという認識へと昇華される時、生命の真実の価値に我々は気づかされる。 この認識の変化は、母性に似た包容力と愛情深いまなざしを通して、私たちの存在の全体像を新たな光で照らし出す。性の神聖さと、生命としての性が融合し、我々を形

        既存の飛躍アンソロジー

          シャーマンについて

          様々な出来事が起こった時。 シャーマンは、この目の前の出来事が表す力を捉えます。そしてそれを「まだ自分のものになっていない『力』と捉えていきます。 その力が指し示す方向に自分を向け直すことを学び、この影と向き合い、受け入れ、そしてそれを超える道です。 このプロセスは、心理的な成長、霊的な覚醒、そして自己超越へとつながります。 シャーマンは、困難や障害を避けるのではなく、それらを通じて学び、成長します。このプロセスは、個人の内面の探求だけでなく、外的な現実との調和をもた

          シャーマンについて

          内なる世界との出会い〜ツインレイ〜

           「ツインレイ」という概念に出会ってから、私は恋愛に対する全く新しい視点を持つようになりました。 多くの恋愛と、この言葉自体が指し示すものは全く違っているからです。 「ツインレイ」との出会いは、考えられない様なときめきや幸せが続く..というものではなく、むしろ、現実の一部として存在し、それは従来の恋愛が持つイメージ(期待、願望)や〈夢〉としている性質を浮き彫りにするものです。 人類において恋愛という物語は、しばしば理想や願望という夢を相手に投影し、その反映を求めがちです

          内なる世界との出会い〜ツインレイ〜

          両性具有から無性へ:プラトニックな愛と宇宙的自己

          思えば、私は長い間、女性的な側面を避けてきた。感情の深さ、願い、思いやり、これらは私にとって避けがたいものであった。なぜなら、これらの感情は私にとって、ある種の脆弱さを意味していたからだ。 繊細さを受け入れれば、強さが失われるという男性性の記憶。しかし、時間が経つにつれ、私は男性性と女性性の両方を経験し、自身のスピリットが両具有であることを認めるようになった。 そして今、私は「無性」という新たな領域を感じている。これは過去に感じたことのない、新しくも懐かしい感覚だ。この境

          両性具有から無性へ:プラトニックな愛と宇宙的自己

          フリープレイ2023

          観念にしろ価値にしろ、何かにつけて、大外刈りを繰り出し、なぎ倒すのは相手を屈辱に強いるためではなくフリープレイスタイルへのお誘いにすぎない。それを仕掛けることが今年一番のチャーミング。(だったと思っている) 「自分ではもう転げられなくなっているよね?」 「でしたら、私が」 というおもてなしの心からの破天荒アラワレ。 リーラでしかない宇宙の遊戯そのものなのだとしたら、深刻ささえも笑いのフリにしか見えないのだ。ボケとツッコミ(同化と異化)の反復がたまらなく面白い。私は多視点

          フリープレイ2023

          夏のアンソロジー

          狂ってもいい。そんな言葉をかけられた時、磁力と重力とわたしが引き離されるような感覚になる。原初、生命に還れと言っているんだろう?その引き離し垂らされる一滴の聖水は、間違いなく清らかなのに。 肌に触れたいの。一番外側の貴方だから。 だから好きなの。 触れられる、唯一の貴方の心だから。 豊満な生命を注ぎ込む。 このこと以外何があるのか。 原始的な身体と、空洞が開いて全てが恩寵として感じるハートと、水が張られたような意識が創り出している。それを今、わたしと呼ぶ。 生きる夏。

          夏のアンソロジー

          知性とエロス

          身体と一致して感じること。 無機質だった思考性が、 この度、官能的な知性になっている。 知性が、感性と結びついたらそれは芸術だし 儚く大切にしたいものとなる  知性が、時代と結びついたら それは近代商業や文明を感じてスマートだし 知性が、生きる根底や命と結びついたら 最高ですってなる。単純に好みなのだ。 生命という実存や実体そのものダイレクトに知性が結び付いている。椎名林檎、岡本太郎さんたちに感じるものである。   わたしにとって知性とは「結びつける意図」である

          知性とエロス

          「生きて」

          生まれ直しの予感がした今回の故郷。 高知帰省の最終日。親子2人で過ごす事ができた。 何年ぶりだろう。眠る前、電気を消して暗闇の中で母は私にぽつりと話しかけた。 「生きて」 「生きてることでしか味わえないしあわせを味わってね」 この言葉を伝えて母は眠った。 私は泣いてるのが分からないように眠ったふりをした。この涙の意味を問いかけていた。 幸せを願われたり、頑張れと言われたり、応援されたりはあったけれど、「生きて」と言われたことは人生で、初めてだった。「生きて」と誰かに願

          「生きて」

          福音のアンソロジー

          生きる音 心に触れるのは心から出た言葉。 魂に触れるのは魂から出た言葉。 言葉は、歌でもあり、形であり、音である。 時には 多く語らないことが言葉だったりする。 余白のなかにあるものに 本当に伝えたいものをみる 言葉を語るのは、語り尽くせないものを 集約させようとした試み。 それもまた生きる道と様であり美しい。 言葉を敷き詰めたり、あてがったりする時間が生きるということなのかもしれない。それさえも包んでいる余白、集大したいのち。それを真ん中で感じて広がるのは切なさ

          福音のアンソロジー

          ストーリーの終焉へ

          人間を辞める退職届を誰に出すでもなく自分のために書いた。そこからはや5年が経つ。 その時、辞職、離婚、家がなくなるという怒涛もない流れから決意した其れ。 ひとと関わりながら、コアをを保つこと、忘れないこと。自分の中にあるものをコンテンツ化すること。 表現をしていくこと。日本の土地と繋がること。 色々あった。特に、2022年は愛着や魂のカルマプログラムの自覚の総仕上げだった。 宇宙の共に生きる、天に任せて生きる、と決めたあの日から、今日を迎えている。 魂が露わになる。

          ストーリーの終焉へ

          土佐の男に愛されていたと知った日

          この中村玉緒さんに土佐の女を見た。 笑顔の玉緒さんのイメージが強かった。こんな顔をする彼女はとても美しいと思って眺めていた。 同時に私の顔にも見えた。 生意気で、物をもうして、啖呵を切る。 そんな自分を、全然言うことを聞かない、気立ても良くない、慎ましくない、はしたないと思っていた。 彼女のこの表情を美しい、いいぞと思えたとき私の中にあるこの顔をする女性にも美しさを見出してる。そんな気がした。 そんな風に郷土に思いを馳せていたら、家族のLINEグループに大量に通知。

          土佐の男に愛されていたと知った日

          「もっと」は、防波堤を越えて

          「もっと、もっと」波打つ声は、心の防波堤を超えてきてあっという間に“わたし”を呑んでしまう。 そういうことが経験としてある。経験したことない現象との対峙は赤子からスタートする。それは、小さい頃と同じ反応を引き出すのかもしれない。例えば、すくむ、固まる、助けを求めて泣く、癇癪を起こす、引き付けを起こすなど。 その波に呑まれているとき、大人になった私たちにとって厄介になるのは波そのものではなく、その陥っている状態を認識し早急に分別を下そうとすることにあると思う。 「これは何

          「もっと」は、防波堤を越えて

          ぼーびろく。

          愛する自分を、眺めている。 その空間そのものをじいんと感じている。 時間や【ある•無い】が消えていく。 そんなとき、 いろいろなものがわたしから去っていく。  詰まっていたものや少しの我慢などの意も、 精製の壁を越えていく。 微笑んで包んでいるような、ホールそのものになっている。 神聖な理を無理して受け入れようとする時、そう思おうとするとき、ナニカまだ感じきれていない、吐き出したいものがある。そのフラストレーションが満タンになった頃、その神聖な理自体を〈嘘だ〉と弾圧し

          ぼーびろく。