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フリープレイ2023

観念にしろ価値にしろ、何かにつけて、大外刈りを繰り出し、なぎ倒すのは相手を屈辱に強いるためではなくフリープレイスタイルへのお誘いにすぎない。それを仕掛けることが今年一番のチャーミング。(だったと思っている)

「自分ではもう転げられなくなっているよね?」
「でしたら、私が」

というおもてなしの心からの破天荒アラワレ。

リーラでしかない宇宙の遊戯そのものなのだとしたら、深刻ささえも笑いのフリにしか見えないのだ。ボケとツッコミ(同化と異化)の反復がたまらなく面白い。私は多視点の偏在をこよなく愛する女である。

入り込み、そしてシラケ(醒め)その中で“嗚呼面白い”という実感が神経を走る。神経を通すパルスは私にとって遊びなのだ。せっかく相対の中にあるので、入り込むこともシラケることも、硬くなったり柔らかくなったり、放出したり集めたり、行き来できたほうがクリティカルな体験に興じることができる。
ソフィアが具現化したものが遊びだと思う。

「バカじゃないの」「アホらしい」
これらを見切ってやらないのは賢い人だ。

倣う人は俗世を教えてくれる。

あえて「アホとバカやってみる」人もいる。
私の中で創造的な、人間のセンスの人だと思っている。そんな人たちは面白くて、退屈しない。すぐに退屈してしまう人熱冷めきったこの世に必要な温度ではないだろうか。

可愛げも感じられる。
可愛げとはインターバルなバグである。
このよを堪能するコツは、インターバルなバグに乗りサーフィンを嗜むことである。
すれば、この世のどんなものも、人も、私も、丸みを帯びて感じられる。

賢人も倣い人も可愛げの人も私の中にいる。
賢い世界も倣う世界も可愛げ世界も存在する。
生命と概念と、大きな括りで言う自然とが交差するポイント。其処で遊ぶ影が我々の実態であり、その一つ前我々の正体だ。

様々なレイヤーの瞬間移動を楽しむ人生。
それが意識原初からの人生トレースだ。然るべきとき首を縦に振り、横に振り、身体を揺らし、意識では笑う存在リーラ。そのように揺蕩いつつ、不動なものの中で味わい堪能し生きている。
人間としての可愛げは、生命を遊ぶフリープレイたる意識から。一番感じてみたかったものなのかもしれない。祓い清めるポーズをとりながら、清濁を併せ飲み即興ダンスを来年も踊りましょう。


layla





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