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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 夏・壱6

 深遠は黙して言葉の続きを待った。吾一は卓上に視線を固定したまま、静かに音を再開させる。

「深遠さんのお答えを聞かずに逝くことになるだろうと、父は覚悟していました。きっと貴方の出す答えを、父はわかっていたのではないかと……それで……ああ、いや、本当にご迷惑な話だというのは承知の上なのですが……どうなのでしょう? 貴方のように重責を背負う方の妻が、維知香に務まるのでしょうか?」

 言い終えると同時に、吾一は深遠に顔を向けた。その表情には不安の色が見てとれた。

 吾一にとって、維知香は一人娘。正一も勿論維知香を愛していたが、父親のそれとは、また意味合いが違うのだろう。

 深遠は、未経験である【父親の立場】を慮った上で、口を動かした。

「維知香様に務まらないのではなく、私が夫という立場に相応しくない、そう考えております。維知香様は聡明で柔軟で、芯のある人間であると……ですから今後、彼女に相応しい殿方が現れれば、妻として、母として、立派に務め上げられるかと」
「つまり、その相手が貴方であっても問題はない、ということですね?」
「そのように受け取られるような言い方を、してしまいましたか?」
「ああ、いや、すみません! 試すような言い方をしてしまって……実は、父が亡くなった後、私と桜子とで話し合ったんです。維知香にとっての幸いとは何なのか、と……桜子は、こちら側で、ともに暮らして行ける男性と結ばれるのが、最終的には幸せなのではないかと考えているようです。ですが維知香は、貴方以外の男性と結婚するぐらいなら、一生独りでいると決めているようでして」

 音を止め、吾一は口に猪口を傾ける。ぐっと酒を飲み込み、長く息を吐いた後、再び音を流し始めた。

「だからと言って、何がなんでも貴方にもらってくれと言っているわけではないんです。ただ、先程言われたように、もし添い遂げられない原因が維知香にではなく、深遠さん自身におありなのであれば、それを取り除くことができないものかと……」

 吾一は刹那苦笑いを浮かべたが、すぐに表情を引き締め、深遠の言葉を待つ姿勢をとる。

 深遠は黙したまま、両瞼を閉じた。吾一の視線が刺さって痛かったからではない。己の中に、深い場所に、意識を向けたかった。

 生涯、鷹丸家に仕えると誓ったことに偽りはない。しかしそれは、男女の色恋とは分けて考えるべきだろう。桜子が考えるように、維知香は自分以外の人間と結ばれるべき。そうでなければ、家は絶えてしまう。

(まさか、彼女は絶やそうと考えているのか……宿災の血を自分で断ち切ってしまおうと…………考え過ぎか。宿災の血筋は鷹丸家だけではないと知っているはず)

 維知香の心の内を考えたところで、答えは出ない。

(全く情けない。他者に理由を探し、自分の言い訳の材料にしようなど、許されるはずもない)

 深遠は瞼を持ち上げ、座を改めた。吾一に体を向け、一度息を吐いた後、口を開く。

「吾一様が仰られた通り、原因は私にあります。私は、父親、夫、そういった男の姿を見て育ってはおりません。ですから、わからないのです。妻となる人間に、どう接したら良いのか、どのようにして幸せに導けば良いのか……」
「どうのように導けば、ですか……正直な話、それは私にもわかりません。桜子と結婚する時、彼女を幸せにしますと向こうのご両親にお伝えしましたが、さて、どうなんでしょうか。桜子の望む幸せを与えられているのか、わかりません。与えると考えること自体、間違いなのかもしれませんね」

 ふっと表情を和らげた吾一。立ち上がり、そのままで、と言い残して座敷を出る。ひとり、深遠は吹き込んだ夜風に、ため息を織り交ぜた。


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