見出し画像

宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 夏・壱4

 夕刻。鷹丸家の座敷。かつて正一が座っていた場所には、吾一の姿。

「今回も、ご苦労様でした。戻って早々、賑やかな場所に引っ張り出してしまって……ご容赦下さい。なにせ皆、再会を待ち侘びておりましたので」

 にこやかに語る吾一。父親から代を継ぎ苦労もあったのか、以前よりも頬が痩せ、精悍な面立ちに威厳が増したように見えた。

 菊野は結い上げていた髪を切り、緩く巻き上げた髪型となっていた。パーマという技術なのだと、深遠は維知香から教えられた。

 相変わらず、菊野は和やかで、温かな笑みを見せる。夫を失い、悲しみに沈まなかったはずはない。今更かける言葉を見つけられず、深遠はただ、菊野が空間にもたらす温かさに甘えるに留まった。

「深遠さんも髪を切ったのね。前に戻られた時と印象が違うわ。お若く見えます」
「菊野様も、印象が変わられました」
「そうでしょう。こんなに短くしたのは、子どもの頃以来なの。あの人は長い髪が好きだったから、手入れが面倒でも伸ばしていたんだけれど……もういいかしらと思って。白髪も増えましたしね」

 目尻に皺を寄せて笑う菊野は、まるで少女のよう。

「とても、良くお似合いです」
 そう口にした深遠の横で、維知香が目を大きく見開く。
「ひどいわ、深遠! ねえ聞いておばあ様。深遠ったらね、私の制服姿を見て、似合う、と思う、って言ったのよ。思うって」

 卓に身を乗り出し、祖母に訴えかける維知香。菊野は、おやまあ、といった表情で深遠を見た後、口元に手を寄せ、上品に笑う。

「深遠さん、貴方もなかなか……ああ、可笑しい」

 笑い続ける菊野に、深遠は小さく頭を下げた。維知香の興奮は収まらず、祖母と深遠、二人を交互に見ながら言葉を放つ。

「ずるいわ、おばあ様のことは、ちゃんと褒めるなんて……」
「維知香、貴方、こんなおばあちゃんに嫉妬なんて……いい? 皆が皆、貴方のように率直に気持ちを伝えられるわけではないのよ。似合ってないって言われたんじゃないのなら、良いじゃないの」

 祖母に説得されるも、維知香は不満気。

 にこやかな表情を崩さない菊野。沈黙を貫く深遠。一連の流れの中、動きを止めていた吾一は、やれやれといった面立ちで冷酒の栓を抜き、深遠の猪口に、柔らかで透明な液体を注いだ。

「こういう時は、呑むのが一番です」
「いただきます」

 男二人、杯を合わせる。維知香は大げさな膨れっ面を見せた後、座敷を出て行った。

 遠ざかる足音に耳を傾ける深遠に、吾一の響きがぶつかり始める。

「女性というのは、ほんの僅かな変化にも気づいて欲しいという感情が強いようですね。と言っても、誰にでもというわけでもないようで……面と向かって褒めるというのは、なかなか難しいものですよね。私も気が利くほうではないので、若い頃には桜子をたびたび怒らせましたよ」
「吾一ったら……私も、なんて言ったら、まるで深遠さんが気の利かない男のように聞こえるわ」
「これは、失礼しました。ですが深遠さんも、お世辞をぽんぽんと吐けるたちではないですよね」
「はい」

 深遠は簡潔に答え、微笑んで見せる。その笑みに触発されたのか、吾一は声高らかに笑った。その響きに、深遠は正一を見つけた。

(親子というのは似るものなのだな……俺も、似てきたのだろうか)

 ふと、父と認識している人間の顔を思い出し、すぐに消し去る。家族の思い出は、鷹丸家で得たものだけで充分。そう自らに言い聞かせ、深遠は猪口に残った酒を喉に流し込んだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?