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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 夏・弐6

 薄っすらと開いた、維知香の瞼。瞬き。続く瞬き。そして大きく目を見開く。深遠の姿を求めて顔を横に。作務衣姿を捉え、更に目を見開く。

「私、どうして……深遠、私、一体」
「一体何があったのか、と聞くつもりか?……わかっているだろう? 自分が何をしてしまったのか」

 穏やかではあるが、確実な厳しさを孕んだ深遠の響き。維知香の顔に浮かんだのは、羞恥の表情。それは瞬く間に悔しさを滲ませるさまとなり、目元に押し寄せる感情を堪え始める。

 深遠は、黙して見守るか、胸に飛び込む維知香を受け止めるか、いつもなら、いずれかの選択となる。しかし今は違う。深遠はじっと維知香を見据えたまま、言葉を繋ぐ。

「あそこは危険だと、立ち入らないようにと、何度も、何度も言った。直前にも言ったな……昔から何度も何度も教えたことを、覚えているか? こちら側と、あちら側、ふたつの空間の均衡が崩れたら、どうなるのか」

 深遠の問いに、維知香は頷きを見せる。

「ならば口にして、俺に聞かせてくれ」
「……もしも均衡が崩れたら……どちらかの世界が消滅する。無に、還ってしまう……」
「そうだ。君はそれを理解した上で、自らを、この世に生きる者達の命全てを、危険に晒した。そこまでして何を知りたかった? まさか俺に心配をかけようとしたなどという稚拙な答えを返しては来ないよな?」

 音を切り、深遠は維知香の答えを待つ。しかし空間は、静のまま。

 天井に視線を定めた維知香。その目から、堪えていたものが零れ落ちる。滴は頬を伝い、枕に落ち、歪な楕円を描いた。

「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい」
「……もし、あれが君ではなく災厄の意思なのだとしたら、俺は君を、俺自身を、買いかぶっていたことになる。災厄と通じていると言った君を信じ、俺自身、そうだと感じていた……これは、俺の罪でもある」
「違う! 違うの、あれは私の意志……だから、深遠は悪くない」
「どちらが悪かった、という話で終わる問題ではないんだ。互いに未熟である証明となったのなら、精進するだけだ。君も、俺も」
「本当にごめんなさい、私、とんでもないことを」
「謝罪は俺ではなく、灯馬に言ってくれ。今は不在だが」
「とうま?」
「君が空間の狭間に流されてしまわないよう、守っていた者の名だ」
「とうま……その方は、深遠が前に言っていた、同志のひとり?」
「ああ」
「宿災? それとも脱厄術師?」
「彼は偽宿だ」
「ぎしゅく? それは何? どういう存在なの?」

 維知香は上半身を起こし、深遠に体を向ける。眼差しは、いつもの好奇心旺盛なそれに戻り、素直な疑問を、ただ解決しようという意思を示している。

 対する深遠。立ち上がり、縁側へ。庭に向かい、大きく息を吐き、維知香に背を向けたまま言葉を放つ。

「君の真っ直ぐさは貴重だ。本当に、大切にして欲しいと思う。だがもっと、他者に目を向けるべき時があるだろう……気にはならないのか? 君を救うために灯馬が傷を負わなかったか、痛みを感じなかったか……この世に存在しているのは、君と俺だけではないんだ。少なくとも俺は、俺達だけが無事であればそれで良いとは思っていない。君も、そうであって欲しいと願っている」

 音を止め、ひとつ息を吐く。

 深遠は胸に湧き上ったものを、必死に抑えた。それは怒りの感情。維知香に対し始めて抱く怒りに、深遠は戸惑いを覚えた。

「深遠……」

 背後で気配。維知香は立ち上がり、縁側へ出ようとしている。それに気づいても、深遠は振り返らず、維知香の言葉に反応を示そうともしない。

「ねえ深遠、私ね」
「触れるな!」

 作務衣の袖に感じた僅かな熱は、深遠の激情に驚き遠ざかる。十秒と待たず、空間に維知香の嗚咽が流れ込んだ。


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