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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 夏・弐7

 深遠は背中にぶつかる維知香の泣き声を、意識的に耳から排除した。聞こえない。泣き声など、空間に存在しない。

 嗚咽が遠ざかることを祈りながら、しばし立ち尽くす。しかしそれは終わりを予感させず、ヒグラシの鳴き声と重なって、深遠の中に流れ込み続けた。

(何故、立ち去ってくれない……)

 振り返り、維知香を抱きしめ、その嗚咽を胸に閉じ込めてしまえたなら。そう思う自分と、今はそれをなす時ではないと引き止める自分。前者は男、後者は守護。後者であり続けようとしていたのは、前者である自分を、認知していたからなのだろうか。

 深遠は無言を噛み、庭に出た。今は、守護を全面に出すべき時。維知香との距離をあけ、深遠は伝えるべき言葉を、ただ単純に口にした。

「あの洞窟には、より強固な結界を張り直す。だからといって、立ち入っても平気だというわけではない。二度と勝手な真似はしないと、約束して欲しい」

 重みを含んだ深遠の声に、維知香は何度も頷きながら涙を拭い、言葉を発しようと試みている。しかし嗚咽を止められない。むしろ激しくなっている。

 深遠は数歩進み、生け垣の手前で僅かに振り返った。

 縁側に立ち、泣きじゃくる維知香。その姿は、まるで幼い。思わず足が縁側に向きそうになり、深遠は顔を生垣に寄せた。

 維知香の嗚咽は、どれほどの間流れ続けていたのか。

 いつの間にか、ヒグラシの声が最も耳につくようになった。空から赤が消え、それでも明るさは残り、涼しさを含んだ風は、頭上の紫紺を見よ、とでも言うように、深遠の前髪を揺らす。

 ギッと縁側が軋み、深遠は思わず振り返る。維知香は、空を見上げていた。

「きれい……見られて良かった……あのまま捕らわれていたら、この空を見られなかったのね…………深遠、とうまさんは、いつ戻るの? 私、きちんとお礼を言いたいし、謝りたい」
「……今日は、もう家に戻ったほうがいい」
「わかった。そうする」

 素直に聞き入れ、維知香は深遠に背中を向けた。乱れた髪の毛を整え、布団を畳み、玄関の方向へ。玄関の引き戸が開き、トンッと静かに閉じ、家の中から維知香の気配が消えた。

 維知香を自宅まで送り届けるのが常であるが、今日は、そうしないほうが良いと判断した。砂利道を行く、維知香の足音。それはゆっくりと遠ざかる。

(これで良い。これで……)

 完全に足音が消えたところで家に入ろう。そう深遠が決めるのと、ほぼ同時。ゆっくりと遠ざかっていた足音が、強い音を上げて戻ってきた。

「深遠!」

 音は生垣の向こうから。常緑樹の葉の隙間に、維知香の姿。思いがけぬ行動に驚き、深遠はつい、維知香の顔を見据えてしまった。

 維知香は僅かに距離を縮め、音を放つ。

「貴方の手、災厄のせいでしょう? ごめんなさい。痛む?」
「いや……もう平気だ」
「災厄が、どうしてあんな真似をしたのか、わからないの……ずっと前から、あの場所に興味があった。災厄が疼くのも感じた。それに、貴方に気にかけて欲しかった……理由はたくさんあるの。だからどれが本当の理由で、どうして災厄が暴れて、意思が通じなくなったのか、わからない。でもね、確実にわかっていることもあるの。それはね、貴方は絶対に来てくれるって……危険な目にあってしまっても、絶対に深遠が助けてくれるって信じていた……だからって、あんなことしていいわけじゃない。これまで散々注意されていたのは、きちんとわかっていたのよ。でも、どうすれば貴方に近づけるのか、わからなくて……貴方が見ているものを見て、感じて、そうしたら、貴方の心の中まで見えるようになるんじゃないかって……」
「俺の、心の中……何を見ようと言うんだ?」
「全部! 全部見たいの! 深遠の喜怒哀楽、全部知りたい。だって貴方は……貴方は、いつも隠すじゃない。私はもっと、もっと知りたいのに、そうすればするほど、貴方は隠すから……」

 維知香は俯き、沈黙。

 深遠の奥底。深く深く沈めた思いが、浮上する。

 誰かに 自分を知ってもらいたい

 その渇望を満たせる相手が目の前にいる。維知香の視線は、再び深遠に向かっていた。真っ直ぐに、迷いなく。

 生け垣の向こうに引き付けられる自分を認めながら、深遠は後ろに、ゆっくりと足を引いた。維知香が生け垣に腕を挿し入れても触れられない位置まで下がる。その動きに維知香は表情を曇らせ、唇をきつく結び、奥歯を噛むような表情を見せた。

「……まだ、隠すのね」
「視界が闇に埋もれる前に、戻ったほうが良い」

 深遠は言葉に丸みを乗せないよう意識し、音を届けた。維知香は頷きを見せずに歩き始める。その足音は再び戻ることなく、夜に溶けた。


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