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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節  冬・参1

 時が訪れたのは、如月の朝。身を律するような冷気に満たされた山林を、深遠と維知香は歩いている。背の高い木々に囲まれたその場所には、まだ夜が残る。足元は、道と呼ぶには険しい有様。二人は手を取り合い、前へ前へと進む。

 維知香は薄紅色の着物に、墨色の綿入り半纏。深遠は黒の作務衣に黒の羽織。互いに手荷物は少ない。住まいを移すにしては身軽な格好。しかしそれで良いと決めた。

「ねえ、少しだけいいかしら?」
「どうした?」
「ほら、あそこ……今あそこに行けば、太陽が山から顔を出す瞬間が見られそう」

 立ち止まり、維知香は群を抜いて太い幹を持つ杉を見上げた。逞しい枝が、まるで腰掛けろと言わんばかりに宙を横切っている。

 深遠は、維知香が何をなそうか理解した上で、了承の頷きを。維知香は、はにかむように笑い、深遠の左腕に自分の右腕を絡ませる。途端、一陣の風が二人の体をさらった。

 浮遊 上昇
 宙へのいざない
 静かに ゆっくり
 枝に乗る

 硬い枝の上。東を向いて座る二人。
 口を噤み、山の稜線が光になぞられる様子を眺める。

 眩 明 瞭

「綺麗……生まれたての朝日って、こんなに鮮やかなのね」

 囁いた維知香。その頬を流れる滴を、深遠は指で拭う。

「今日は一段と鮮やかな光だ」

 穏やかな音に寄り添うように、維知香は深遠の肩にもたれる。視線は東に向いたまま。

 朝日に見入る維知香の黒髪を、冷涼とした風が舞い上げる。しかし維知香は、瞳に朝日を取り込むが如く、視線を飛ばし続ける。

「そろそろ降りよう。時間が」
「あと少し。こんなところで朝日を見るなんて、最初で最後かもしれないから」

 維知香は朝日を捉えたままの格好で請う。

 最初で最後。その言葉の持つ意味を深遠は問い質さず、ただ静かに維知香の願いを聞き入れ、地上に戻る時を待った。

 杉に別れを告げ、二人は再び地上を歩き出す。途中、維知香は寒さに身を屈めた。そんな姿を、深遠はこれまで見たことがなかった。

 彼女に宿る災厄のひとつ【豪雪】は、冬を存分に楽しんでいたからだ。その影響で維知香は寒さに凍えることなく育った。それなのに今は、まるで初めての冬を過ごす子供のよう。

「やっぱり、いなくなったみたい」
「そうか」

 ぽつりと落ちた維知香の呟きに、深遠も呟きを返す。そして維知香の右手を握り締めた。真っ白な肌の色に付随するような、ひやりとした温度。

 維知香は、睦月の半ばに出産を終えたばかり。身体は完全な状態ではないが、あちら側に向かうことは、とうに決めていた。

『ひと月あれば充分。この子を私の中に刻むには、充分な時間だわ。』

 充分とは言えない。そう深遠は思ったが、過ごす時間が長くなれば離れられなくなるという意味であろう、と捉えた。その時は、まさか災厄とも離れてしまうとは、考えもしなかった。


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