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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節  冬・参2

 維知香が自らの変化に気づいたのは、産院を出た瞬間だという。寒いという感覚に恐怖を覚えた、と維知香は語った。

 生まれたばかりの子に【宿り】がないか、吾一は知りたがった。真実を伝えるべきか、偽って桜子の心を守るべきか、迷った挙句、選んだのは後者。宿災だからといって、必ずしも祓いを覚えなければないわけではない。深遠がそばにいて、災厄との通じ方を、他者への隠し方を、授ければよい。

「あの子、私とも、貴方とも、同じ……そして、どちらとも違う……いままで、こんなことってあったのかしらね」
「聞いたことはない。宿災と脱厄術師が結ばれた前例も、俺の知る限りはないからな」
「そう……大丈夫、よね?」
「案ずるな。俺は俺の、君は君の知っていることを全て、あの子に教えるまで。方法はともに考えよう……さあ、急ごう」

 特段冷え込んだ朝ではないが、寒さを覚えて間もない維知香には酷な状況。二人は足を速め、しばらくして、深い青を湛えた湖に辿り着いた。

 湖畔を巡り、深遠が持つ和船のもとへ。それは湖面から少し離れた木立の中で、ひっそりと身を横たえていた。いつ果てるかわからない、古びた一艘。

「あら……想像以上に年代物ね」
「あちら側に無事に辿り着ける自信はある。俺の、相棒だ」
「頼もしいわ。よろしくお願いしますね。相棒さん」

 舟を撫でて愛でた維知香。深遠はその手をとり、舟の中央に導いた。まだ揺らぎのない舟底に、維知香は正座。

「そのまま、座っていてくれ」

 維知香の頷きを受け取った後、深遠は舟の前方を覆う枝葉を紐で括った。地面に落ちた大振りの枝を取り除き、湖面への道を確保。淡々と進む作業。その隙間に鼻をすすり上げる音が流れ込み、深遠の視線を引き寄せた。

 殺風景な舟の上。身を屈める、維知香の姿。二十歳を向かえてもうすぐ一年だというのに、まるで幼い。しっかりと掴んだ羽織の襟で、微かに震える細い指。羽織の黒と一体化した黒髪。寒さに染められた頬のおかげで、小さく白い顔が、一層可憐に映る。

 深遠は作業の手を止め、舟の先端に向かって立った。両手を舟にかざし、音を生まずに言葉を紡ぐ。

 我願う
 深き時を刻みし此れに僅かな守りを
 進むべき道
 見紛う事なく
 辿り着くべき地に降り立つまで
 微少の力を貸したまへ
 我この身に持てる力を以って
 此の者達を導く
 その一念に微塵の偽りなし

 熱を帯びた両手の平。舟に触れること、僅か一秒。深遠は舟から手を放した。同時に維知香は顔を持ち上げ、深遠に視線を。

「ありがとう。結界、張ってくれたのね」
「すまない、気が利かなくて。これで多少寒さもしのげる。もっと早くそうすれば良かったな」
「器用に気が利いたら貴方じゃないみたい。それに、冬が寒いっていうのも、ちゃんと実感できたしね」
「そうか……舟を動かす。縁に手を置いて、しっかり掴んでいてくれ」

 舟の後方に位置を移し、深遠は少しずつ舟を押し進めた。舟底が水面に乗ったところで大地を蹴る。出発の揺れがおさまると、凪いでいた風が存在感を主張し始めた。


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