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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 春・参1

 うたた寝をいざなう春の陽気は瞬く間に去り、気づけば入梅の気配が、すぐそこまで近づいていた。深遠は自宅の縁側に立ち、まだ完全に夜に染まっていない空に向かう。濃度を増した緑の匂いが風に混ざる。

 【こちら側】に戻り、ひと月半。大半の時を維知香と過ごした深遠は、自分の表情が柔らかくなってしまっていることに、一抹の不安を抱いていた。

 【あちら側】に赴き任を果たすためには、己の中から和やかな気配を追い出さなければならない。しかしそうしようとする度に、維知香の笑顔、声、気配、様々な要素が全身を駆け巡り、邪魔をする。非常に厄介だ。

 本当は、もっと早くに立つつもりだった。自らの任を見て見ぬふりをしたわけではないが、のんびりと過ごしてしまった自分に嫌悪を抱く。

 古都より西に、随分と長い距離に亘る鉄路が敷かれ始めた。開通すれば多くの人間が往来し、それによって【零念(れいねん)】も増える。零念とは、人間から零れ落ちた邪念。それらは次の宿り主を求めてさまよう。宿災は【器】の素質を持つゆえに、零念を引き寄せやすい。それもあり、身を守る術を習得するのは必須とされている。

 零念は、時に新天地を求めて空間の歪みに入り込み、あちら側に到達してしまうものもいる。ひとつひとつは非常に小さな存在であるが、そもそもが【人間が零した穢れ】であるため、集結すればそれなりに力を持ち、知恵も増す。零念の多くは虫の姿を模しているが、普通の人間の目には映らない。よって、警戒できる者は少ない。

 零念が結界の歪みに入り込まないよう、結界のほころびを直すのも、脱厄術師の任である。結界は【罠】の役目も果たし、そこに捕らわれた零念を滅するのは、宿災の任。

 宿災とは、生まれながら身に災厄を宿した存在を指す言葉。維知香の生家であり、深遠が仕える鷹丸家は、宿災が生まれる家系とされており、現在は維知香が、一族で唯一の宿災である。

 なにゆえ宿災は、そのような任を背負うのか。

 人の穢れは、人の手によって無に還すことは不可能。宿災は身に災厄が宿っている分、ほんの僅かではあるが自然に近い存在とされている。宿った災厄と意思を通じ、自然の力を借りて零念を滅する。それは【祓い】と呼ばれ、宿災のみに与えられた重責である。自らに宿ろうとする零念から身を守るために、祓いを行うこともある。

 近代化に躍起になる人間達は、利便性を求めて発展の手を広げる。それは、これからを生きる人々にとって必要であると、深遠は理解している。しかし、知らず知らずのうちに古き結界を寸断し、歪みを生じさせているのも事実。それを修復できるのは、脱厄術師のみ。己が背負う任の重みを、深遠は再度確認する。今のところ不穏な気配も知らせもないが、修復を疎かにして大きな歪みが生じてしまえば、それは脅威以外の何ものでもない。

 まずは西へ向かい、こちら側の結界を確認。ほころびが生じている、または生じる恐れがある場所を強化した後、あちら側へ。

 深遠は出発の支度にとりかかった。荷物はさほど多くはない。いつもこの段になって思うのは、維知香に知らせるか、否か。これまで、出発を知らせたことはない。知らせれば、どんな態度に出るのか、容易に想像がつく。それが嫌なわけではない。単純に、自分が辛いのだ。

 今宵は正一の誘いを受け、鷹丸家を訪問する。家族全員での宴ではなく、二人だけの酒宴なのだとか。主と二人きりで酒を飲み交わすのは初めて。そんな席で旅立ちを告げるのは無粋かもしれない、と思いながらも、深遠はわずかな荷物をまとめ、風呂敷の口をきつく縛った。


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