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「属性」にとらわれない

私が今住んでいる地方は豆味噌(いわゆる赤味噌)が主流と言われるところです。地元の飲食店で定食を注文すると大抵味噌汁は赤味噌(赤だし)で出てきます。
元々関東生まれで米味噌に慣れ親しんでいた私ですが、たまには家でも赤味噌にしてみようとある日近くのスーパーで赤味噌を1パック買ってみました。

ところが家で赤味噌を使って味噌汁を作ってもなかなかおいしくできません。どんな具を入れても風味が全てかき消されてしまうぐらい赤味噌のクセが強過ぎるのです。
味噌を入れる量を減らしたり、米味噌と混ぜて入れたり色々工夫をしてみましたがどうしても外で出される赤だしのようなマイルドで奥行きのある味わいにならないのです。
結局「やっぱり私のような関東人には赤味噌は合わないんだな」といつもの米味噌に戻ってしまい、赤味噌は長い間冷蔵庫の中に放置してしまいました。

そんなある日、味噌のことをネットで調べていて偶然「赤味噌は煮込むほどおいしい」という記事が目に入ったのです。
その記事に「えっ、煮込むって沸騰させることだよね?」と正直ビックリしたものでした。
「味噌汁は決して煮立ててはいけない」という認識が私にはあったからです。味覚に敏感でこだわりの強い父から「味噌汁を沸騰させてはいけないのは常識でわかるはずだ。風味が飛んで全然おいしくない。そのような味噌汁は飲めばすぐわかる」と口うるさく言われてたので、「味噌汁は決して沸騰させない」は私の中でも鉄則に近い「料理の常識」となっていました。しかしそれは「味噌といえば米味噌」という関東人の食文化でのみ成り立つ「常識」だったのです。

試しに久しぶりに赤味噌を取り出し味噌汁にしておそるおそる煮立ててみると、今まで私が作っていた味噌汁とは見違えるように飲みやすくなり外で飲むような赤だしに近い味に変わって感動したものです。
「同じ味噌なのに『煮立てちゃダメなもの』と『煮立てたほうがいいもの』があるなんて」と目から鱗でした。同じ味噌なのに米味噌と豆味噌とで全く正反対の扱いをしないといけないというのは思いもよらなかったことでした。

しかしこの「同じ味噌なのに」という認識がそもそも間違いだったのかもしれません。よくよく考えてみれば「緑茶」と「紅茶」であれば「同じお茶」とは思わないからです。いつの間にか、紅茶を淹れるときは沸騰したてのお湯を入れるけど緑茶を淹れるときは沸騰したてのお湯は使わないという違いを違和感なく受け入れていたと思います。
では何故「緑茶と紅茶は違う」みたいな認識が味噌に対してできなかったのかと考えてみると、どちらも日頃馴染みのある緑茶や紅茶と違い、やはり土地柄私が育った過程で豆味噌に触れる(赤だしを食べる)機会がほとんどなかったために「味噌=米味噌」という先入観が長年身についてしまっていたのが最大の原因ではないかと思います。

人は多かれ少なかれ、日頃自分に馴染みの薄いものの扱いについてはその「属性」が持つ一般的なイメージを手がかりに判断するものだと思います。
「女性はイケメンが好きである」
「上智大生はバイリンガルである」
「A型は真面目で神経質である」
これらは会話の取っ掛かりとしてはあり(否定されればその後修正すればよい)ですが、「私はイケメンに興味ありません」と言う女性に対し「いやあなたは女性なのだから本当はイケメン好きなはずだ」とその「属性」イメージを相手に押しつけ過ぎると相手は辟易してしまいます。
「大阪人がみなボケとツッコミで会話してると思われるのは嫌だ」と言う大阪人や「ブラジル人がみなサンバやカーニバルが好きと思わないでほしい。自分は全く興味がない」と言うブラジル人を実際に見たことがあります。

そして、私のようなASD当事者は特にこの「属性で相手の特徴や扱いを判断したがる」傾向が強いように思います。
「目に見えるもの/確実なもの/明確なもの」を他者に対する理解の手がかりにしたくなる特性から、相手の気持ちや感覚のような、漠然とした目に見えないものより「大卒である」「○○出身である」「AB型である」のような属性のほうがデータとして明確化しやすいために「確からしく」感じられるからかもしれません。

また一旦「属性」に対するイメージがつくとそれをいつまでも引きずる傾向があるように思います。当事者の感覚としてはやはり世の中の物事や他者を理解する手がかりとして「Aは○○である」のように一旦自分の中で公式化・法則化しておきたいというのもあるかもしれません。私も「味噌=煮立ててはいけないもの」という「公式」が長年自分の中にありました。下手すると赤味噌の良さが出ない方法ばかり繰り返した挙げ句「やっぱり赤味噌は関東人の私には合わない」と決めつけて自分の人生から排除してしまったかもしれないのです。

よく男性で、辛い気持ちを訴える女性に何か親切や気遣いをしようとするときに「この人は『女性』だから『感情的』なんだ。彼女が思ってること/望んでいることは主観的で思い込みもあるから、客観的な立場で『女性』に合った対応を彼女にしてあげたほうが結果的には彼女のためになるだろう」と考えてしまう人がいます。
相手の女性からすると「彼がよかれと思ってるのはわかるんだけど、どうして私が望んでいることをそのまま素直に受け入れてくれないんだろう」とモヤモヤする場面かもしれません。
目の前にいる人の「気持ち/感情」にフォーカスすることは、目に見えないものより目に見えるものに注意が向きやすい特性を持つ者にとってはなかなか難しいことではありますが、コミュニケーションの不得手を改善する意味でも意識して取り組む価値のあるものだと思います。

一方で、「属性」で語られることに違和感を覚えるASD当事者も少なくないと思います。
教育の場でも「あなたは○○なのだから✕✕が得意なはずだ」という先入観を子供に押しつけるとあまり良い成果に繋がりません。
典型的な例では「ASDっ子は視覚優位だから耳からでなく文字や絵を使って目から覚えさせよう」というのがあります。
しかしASD当事者の中にはむしろ「耳からでしか覚えられない」タイプもいるのです。このようなタイプに視覚優位向けの支援を行ったとしても効果は思ったほど出ずに当事者も支援者もストレスを抱えるかもしれません。

「ASDは論理的思考が得意なのでプログラミングに適性がある」「ASDは物やデータを扱うのが得意なので理系に進ませたほうがよい」も同様です。
プログラミングに全く興味が持てないASD当事者や算数LDを併発し理系科目が壊滅的に苦手なASD当事者は少なくありません。そのような当事者に対して「いやあなたはASDなのだから本当は頑張ればできるはずだ」と属性イメージを押しつけ無駄に努力を強いても大して成果は上がらず本人からの反発を生み出すだけです。
ASDという「属性」で当事者の全てを判断するのでなく、目の前の本人の困り感に向き合ってくれるとありがたいなと思います。


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