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「言われてないからわからない」と「言ったのにわかってくれない」の狭間。

よく「言われてないからわからない」「言ってくれたらやったのに」と言う人がいます。
私も仕事や日常生活で人から指摘されるまで気づけないことが多く「気が利かない」「ボケてる」とよく言われるので決して他人事ではありません。

ところが、既に人から何度も説明されたり指摘されたりしているにもかかわらず「言われてないのでわかりません」という人がいます。
そういう人の中には国立大を卒業している人も少なくありません。決して頭が悪いわけではない(むしろその辺の人よりはるかに頭が良い)はずなのです。
そういう人から「言われてないので気づけませんでした」「説明されてないのでわかりませんでした」と言われてしまうと「何度も伝えたのにな…こちらの説明の仕方が悪いんだろうか?」と悩んでしまいます。
実際そのような人と結婚したりパートナーとして一緒に仕事をすると、相手が自発的に先回りして動くということをしないため常にフォローを強いられる側が次第に精神的に摩耗していきます。しかも本人に何度も言葉を変えながら説明したり指摘したりしても聴き流されたりされるため、つい語気を強めたり大声を出したりすると「怖い」「傷ついた」と被害者的な反応をされてしまうため、「自分が悪いんだろうか?」と落ち込んでしまうのです。

なぜ何度も相手に繰り返し伝えているにもかかわらず「そんなこと聞いてないから知らない」「言ってくれたらやったのに」という反応が返ってきてしまうのでしょうか?

思考プロセスの違い

一つには「お互い元々の思考プロセスが違う」というのがあると思います。特に自閉症スペクトラム(ASD)がある場合、多数派と異なる思考プロセスで日頃物事を理解したり考えているために、当事者にとって最も理解しやすい説明が他の人にとっては「やたら回りくどくてかえってわかりにくい」となったり、逆に多くの人にとって最もスッと入ってくる説明が当事者にとっては「抽象的過ぎてよくわからない」となることが多いだろうと思います。

おそらく多くの人たちはそんなに具体的な説明がなくても過去の自身の経験や周囲の事例を生かしつつ相手の表情や視線・声の抑揚やその場の状況などを総合的に判断して相手の言わんとすることを理解する(そして大抵の場合正しく理解されている)のだと思いますが、ASDはつい「説明された言葉」のみで理解しようとするためにフワッとした言葉で説明されると内容を具体的にイメージできず、結局そのまま意識の外に消えて忘れてしまうか言葉の意味を取り違えて全くあさっての方向のことをしでかしてしまうのです。

説明や指示の内容がよく理解できなければ相手にその場で聞けばいいのですが、これを苦手に感じるASDの人も多いと思います。小さい頃から人に質問しては「何でそんなことまで聞くの?」「それぐらい自分で判断してよ」と言われ続けた経験から「もう人に聞くのはやめよう」と諦めてしまうからかもしれません。相手からすると「いちいちこちらが手取り足取り教えてあげないといけないの疲れる」「重箱の隅をつつくようなこと聞かないでほしい」ということだと思うのですが、定型発達者であれば「常識」で補って判断する「語られなかった部分」がASDにとっては「全く見えない」「皆目見当がつかない」という印象になってしまうのです。

自分と異なる「相手の発想」を想像できない

お互いが思考プロセスが違うために相手の説明を理解できないというのがわかったとしても、「相手がどのように発想し物事を理解するか」を想像することが難しいと感じるASDの人は少なくないのではないかと思います。

ASDが抽象的なフワッとした指示や説明を理解することに苦手意識をもつ一方で、自分が誰かに何かを説明するときは自分の脳内で考えたことの細かいところまで逐一言葉で説明してしまうため、一般的に「回りくどい」「理屈っぽい」「複雑すぎる」という印象を与えてしまいます。

私も若い頃に仕事の説明を定型発達者の先輩にしたときになかなかこちらの説明が伝わらない上に相手から「あなたの説明ってわかりにくい。必要に難しく考えてしまうクセがあるからそういう説明になるんだと思う。他の子たちのようにもっとシンプルに考えることできないの?」とキレ気味に言われて面喰ったことがあります。何故ならその説明が自分にとっては最もシンプルで理解しやすいものだったからです。
自分とは違う、「相手の発想に沿った説明」をする必要が私にはあったのでした。しかし「相手の発想」がどんなものか皆目見当がつかないために途方に暮れて「やっぱり私って変なんだな」と落ち込んでしまったのを今でも鮮明に覚えています。

「定型だってASDの発想を想像できないんだからお互い様じゃないか」と思ってしまう当事者の人もいるかもしれません。
しかし私の周りの定型の同僚や友人たちは私の物分かりの悪さに呆れつつも一旦説明して伝わらなかったことを何度も言葉を変えつつ何とか私にわからせようと努力をしてくれています。要は「理解できるかどうか」そのものよりも「理解しようという『歩み寄り』があるかどうか」だと思います。

小さい頃、母から「部屋を片づけなさい」と繰り返し叱られたものです。それでも私がなかなか動かなかったからかそのうち「出したものは元にあった場所にしまいなさい」「布団を3つ折りにして畳みなさい」と指示が具体的になってきました。今から思えばおそらく私に伝わりやすい表現を色々トライ&エラーをしてくれたのだと思います。

一方、当時の私は色々言葉や表現を変えて説明したつもりでも、結果的にどれも「自分の発想で説明している」「自分の発想を相手に押し付けている」に過ぎないものだったために相手をイラつかせたのかもしれません。ここでも「自分が話す」に意識が向いていて「相手の発想を想像する」「相手に歩み寄る」という意識が欠落していたのを当時の先輩は鋭く見抜いたのだろうと思います。

「言われてないから」「言ってくれたら」は使わない

意識が内面に向き過ぎて誰かに指摘されるまで周りの状況に気づけなかったり、こちらがいくら言葉を変え表現を工夫して説明しても相手の発想を想像できないために結果的に相手に対する「歩み寄り」にならないことが多いのはASD当事者としては残念なことであります。

せめて「言われてないからわからない」「言ってくれたらやったのに」は使わないということから始めるのが現実的なのかもしれません。これらの言葉は「あなたが言わないのが悪い」と他責的な響きがあるからです。たとえ結果的に的外れであってもせめて「気づこうとする」「伝えようとする」姿勢を見せるだけでも周りの印象は違ってくるかもしれません。

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