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ASDと「共感」について:その②

前回の記事で「ASD(自閉症スペクトラム)は相手が置かれた状況(=事実)が自分にとって納得できて初めて相手の気持ちを受け入れられるのに対し、定型発達者は状況に関係なく相手の気持ちを想像し寄り添うことができる」という話をしましたが、これを読んで
定型発達者は状況に関係なく相手に共感することができるんだよね?じゃあどうして定型の人はASDに共感してくれないの?
と疑問に感じるASD当事者も少なくないと思います。
以前の記事に書いたように、定型発達者であれば悩みや愚痴を「それはひどい」「可哀想」と周りから共感してもらえるのに、ASD当事者の場合日頃の愚痴を相手に言うと共感されるどころか「それはあなたのほうが変だよ」「それは仕方なんじゃない」とそっけない対応をされてしまいがちだからです。

では何故ASD当事者の悩みや愚痴は相手に共感されにくいのでしょうか?以前の記事には「感覚のアンバランスから不快に感じるポイントが多数派と異なるから」と書きましたが、実はそれ以外に「相手に対する「あなたに聞いてもらいたい」という暗黙のメッセージが話の中に込められていないので相手に伝わりにくい」というのも理由の一つとして考えられると思います。今回はその話をしたいと思います。

「自分が話したい」のがASD、「相手に伝えたい」のが定型

私が中学生の頃、朝から父親にひどく叱られてその事を学校に着いてからもずっと引きずって不機嫌な顔をしていたら級友に「何でそんな暗い顔をしているの?」と聞かれ、家であったことを彼女に滔々と愚痴ったことがあります。その時の私は慰めてもらえる期待がありました。
しかし級友は慰めてくれるどころか「でもLuさんが家で親に怒られたことは学校にいる私たちには関係ないと思うよ」と実に冷静に諭されてしまい、「友達なのに愚痴も聞いてもらえないんだ」と更に悲しくなってしまったことがあります。

上のエピソードを少し前にツイートしたことがあるのですが、かつてのフォロワーであった定型発達者の方から「ASDの人は自分視点しかないから話も「ただ言うだけ」になってしまい相手に伝わらないのだと思います。その点定型発達者の話には「相手に伝える」という視点があるので相手に受け取ってもらえます」というような内容のリプライ(←アカウントが消えているのでもう元リプは残っていませんが)をいただいたことがあります。

私は元が豆腐メンタルですのでこのリプライを見て「随分と手厳しいな」と数日間凹んでしまったのですが、確かにこのASDの「相手不在の自分視点」が共感されにくい原因の一つのように思います。
ASD当事者である私としては「ASDは自分視点しかない」と言われると「そんなことはない」と激しく反発したくなるのですが、よくよく考えてみれば私の場合、定型発達者が話すときのように声の微妙なトーンや表情やアイコンタクトで「あなたに伝えたい」「あなたに聞いてもらいたい」という言外のメッセージを相手に伝えているかというと全く自信がありません。

これは想像なのですが、定型発達者同士の会話は話の本筋の他に「あなたに伝えたい」「あなたに聞いてもらいたい」という潜在的なメッセージをお互い伝えたり受け取ることで単なる情報交換にとどまらず双方の気持ちのつながりを確かめ合うのだと思います。それがASD相手の場合「あなたに伝えたい」というメッセージが話から欠落している(ように見える)ので定型発達者は戸惑ってしまうのではないでしょうか。

おそらく私は級友に自分が不機嫌な理由を説明した時に「今朝家を出るときに親と喧嘩して、父親からすごい怒られたんだよね」と平板で無機質な調子で「事実」だけを話したのだと思います。もちろん「辛かった」ということも言葉にはしましたがそこには「私は辛かった」という意味しかなく級友に対する「ねぇ○○ちゃん聞いてよ」という言外のメッセージが欠落していたのかもしれません。そのため級友も私の話の「事実」だけしか受け取ることができず「Luの家のことなんか私には関係ないし」と冷めた気持ちになったのだろうと思います。

定型発達者は最初から相手視点が備わっているので特に意識せずとも普通に話しているだけで「あなたに聞いてもらいたい」というメッセージがデフォルトでついてくるのですがASDの場合は普通に話していると「私が話したい」になってしまうので定型相手にスムーズに話を伝えるときは意識して「あなたに聞いてもらいたい」を話の中に含ませる必要があると思います。
私もASDなので「どうしたらその「あなたに聞いてもらいたい」が話の中に入れられるの?」と聞かれると困るのですが、言外のメッセージなどという高度なことは考えず「ねー、○○ちゃんさ~」と話の前に相手に呼びかけるのも手かもしれませんね。

「共感」と「自己承認」について

一方で「ASD同士であれば共感できる」という説もあります。ASDの特性に起因する定型社会に対する違和感や困り感が似通っているのでその点でお互い親近感を覚えやすいというのはあると思います。初対面でASD同士が意気投合することも少なくないでしょう。
しかし細部にフォーカスしやすいASDの特性によりお互いのことを知るにつれて自分たちの共通点より差異のほうが気になってしまい「共感」を得る場面が最初の頃より少なくなってしまいます。その差異を「私とは違う、面白い」と楽しめる余裕があればいいですが相手から「私は違うな~」と言われたときに自分を全否定されたように感じるタイプだとお互い付き合うのがしんどくなるかもしれません。

ここで気をつけたいのは「共感」と「自己承認」を混同しやすいことです。どちららも「自分の感覚・感情が正当なものであるという確信」を得るためのプロセスですが、共感が「相手の気持ちに寄り添うこと」に対し自己承認は「相手を自分の気持ちに寄り添わせること」なのが違いです。
相手の話に共感するつもりで「そうなんだー、私はね~」とか「わかるわかる、私も~」と無意識のうちに自分語りに陥っているようなものは「共感」よりも「自己承認欲求」のほうが強いと言えるでしょう。
ASDはその生育過程で人との関わりが上手くいかず自己肯定感が損なわれがちなので自己承認欲求が強めに出る傾向があると思います。このため「自分が認められる」ということに関心が向いてしまい「相手がどう感じているか」という視点が関心から抜け落ちてしまいがちです。そのためついつい「私は」「私って」という話が多くなってしまい知らず知らずのうちに相手を疲れさせてしまうのです。
自己承認欲求が充分満たされたら相手の話にも興味を持ち、相手と気持ちを共有したいという姿勢を心掛けたいものですね。


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