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フィンランドガラスの歴史




フィンランドのヴィンテージガラスをショップで販売するにあたり、私たちは現地の美術館やヴィンテージショップ、展示会や文献資料をもとに継続的なリサーチを行なっています。

今回は、フィンランドガラスの歴史をご紹介していこうと思います。少々長い文章となりますが、理解がしやすくなるよう写真を多めに、かつ複雑な部分を省略しながらまとめています。また、トピックごとに章で区切っているのでお好きな部分からどうぞご覧ください。




00. フィンランド国立ガラス美術館


ヘルシンキ中央駅から電車とバスを乗り継いで1時間30分ほど。

リーヒマキという街に、フィンランド国立ガラス美術館があります。ここは、およそ40,000点のオブジェクトと50,000枚以上の図版がコレクションされている国内最大のガラス美術館で、4000年以上前に遡るガラスの歴史・300年ものフィンランドガラスの歴史が展示されています。

建物は、かつてガラスメーカーのリーヒマキ社(Riihimäki / Riihimaen lasi)の工場として使われていたもの。工場が閉業したのち、タピオ・ヴィルカラの内装デザインによって美術館へと生まれ変わりました。



01. ガラスのはじまり


初期のガラスは、鉄の棒に粘土系の混合物を巻きつけ、その上から粉末ガラスなどを塗り、粉末ガラスが溶けてひとつの塊になるまで熱して製造していました。ガラスを一度溶かしてから形をつくる吹きガラスは、紀元前50年頃のガラス溶解炉の発明以降。それまでは、ガラス製品というより「ガラスの塊」でした。

メソポタミアやエジブトでは石や銅、陶器の制作で培った技術を用いて、ソーダと砂を溶かしてガラスを制作していました。当時のガラスは重要な交易品で、遠く離れた場所に売られていたそうです。



02. 吹きガラスとローマ帝国


吹きガラスは紀元前40年頃、現在のレバノン地方で発明されました。吹きガラスは大量生産を可能とし、紀元前100年頃、地中海全域を支配していたローマ帝国にも広まったと言います。

この美術館には、中東や中央ヨーロッパから発掘された100-400年頃(紀元後)のローマンガラスが多数コレクションされていました。全てが吹きガラスでできており、線状の装飾が見られるものもあります。


かつてのローマ帝国のガラス遺産は、やがて中東のイスラム文化圏へと引き継がれ、地中海地域ではガラス製造の長い歴史が育まれました。ヴェネチアングラスも、その文脈を受け継ぐ地域のひとつです。(その関連は、やや複雑なようですが)



03. フィンランドとガラス


以前は、中世から近世にかけてフィンランドでガラス製品は使われていなかったと考えられていました。しかし、2000年初頭の発掘品から、フィンランドでもその時期にガラスが使われていたことが明らかとなります。

当時使われていたガラスはすべて輸入されたもので、中央ヨーロッパと同じタイプのものでした。それは、当時はまだ自国の文化が確立していなかったことを意味しています。

フィンランドガラスの文化と歴史は、他国の模倣から始まったのです。



04. フィンランドガラスの産業化


フィンランドの歴代のガラス工房の一覧。現存していない工房も多々あります。


[1681-1809年] ガラス工房のはじまり

フィンランド初のガラス工房は、1681年から1685年までウウシカウプンキ(Uusikaupunki)にありました。1748年にはアヴィク(Avik)に新たな工房が生まれ、それ以来フィンランドではガラス産業が続いています。

フィンランドは1809年までスウェーデンに属しており、スウェーデンの王室はフィンランドでのガラス工房の設立を推進しました。ガラスの製造には大量の薪を消費するためです。18世紀末には、スウェーデンで生産されるガラスのほぼ半分がフィンランド(の土地)で生産されるようになりました。主に、瓶や窓ガラスなどの生活必需品です。


[1809-1917年] ガラス産業の低迷と回復

1809年にフィンランドがロシア帝国の自治大公国になると、原材料の高騰や職人不足、需要の減少などにより、ガラス産業は大きく低迷します。回復へ向かったのは19世紀の半ば頃から。ガラスはより広く普及し、窓ガラスや瓶の生産は大規模な工場に集中するようになりました。

ちなみに、ヴィンテージガラスでお馴染みのヌータヤルヴィ(Nuutajärvi)社の創立は1793年で、イッタラ(Iittala)社は1881年です。


[1917年-] ガラス製品からガラスデザインへ

1917年にフィンランドが独立した後も、ガラス産業の発展は続きます。大規模なガラス工場は小規模な工場を買収し、大型の機械を導入することで量・質ともに高い水準を目指しました。

また、工業ガラスではなくガラス“デザイン”への関心が高まりはじめたのはこの頃。ついに、「フィンランドデザイン」の歴史が幕を開けます。



05. フィンランドデザインへ


[1900年-1930年] 輸出用カットグラスの製造

いわゆる「フィンランドデザイン」の歴史が始まる少し前、フィンランドの工場では輸出用のカットグラスが生産されていました。イッタラ社もそのうちのひとつです(今のイッタラからは想像もできませんが)。

1920年代には、クリスタルガラス(無色透明でより重いガラス)を用いたワイングラスが多くイギリスへ輸出されていましたが、装飾はあくまでもイギリス式で、型も海外から輸入されたものか模倣したものばかりでした。



[1920年-1930年代] プレスガラスの普及

1920年代から1930年代にかけて、フィンランドで最も規模の大きかったガラス工房はリーヒマキ社とカルフラ社です。両工場では、大量のプレスガラスを生産していました。

1930年代後半、リーヒマキ社のプレスガラス製品の量と種類はフィンランドで最大でした。



[1932年] カルフラ社とアイノ・アアルト

1932年、フィンランドデザイン史に残る名作が生まれます。

プレスガラスの生産していたカルフラ社はデザインコンペを開催し、機能主義的な方向で製品の刷新を試みました。そして、そのコンペで2位に選ばれたのがアイノ・アアルトによる「ボルゲブリック(Bölgeblick)」シリーズです。現在は、イッタラ社より「アイノ・アアルト」シリーズとして販売されています。

(1位ではなく、2位のデザインが今もこうして愛され続けている理由は、その決定的な違いは、いったいなんだったのだろうかと考えることがあります)


"Bölgeblick" by Aino Aalto
photo: lumikka

このシリーズの何が革新的だったかというと、それはプレスガラスの弱点を「デザイン」で補ったことにあります。

当時のプレスガラスはまだ精度が悪く、ガラスに気泡やシワが入ってしまうことがありました。Bölgeblick=水の波紋のようなこのデザインは、現代的な装飾としての役割を果たしつつも、それらの技術的な制約をごまかす為の工夫でもありました(以前のカットガラスの装飾も同様です)。スタッキングという機能性を持ち、さらに、一度型をつくれば追加のコストがかからないというプレスガラスの利点も活かした、様々な意味で「モダン」なデザインだったのです。

1936年のミラノトリエンナーレでは金賞を受賞し、世にその名が知れ渡りました。


[1936年] カルフラ社とアルヴァ・アアルト

"Aalto Vase" by Alva Aalto
photo: lumikka

つづく、1936年。もうひとつの名作が生まれます。

アイノ・アアルトの生涯にわたるパートナーであるアルヴァ・アアルトの「アアルトベース」が、パリ万国博覧会のためのコンペで最優秀賞を獲得し、カルフラ社より制作されます。また、アアルトは博覧会のフィンランド館の建築設計コンペでも最優秀賞に選ばれており、センセーショナルな国際デビューを果たしたのです。


ちなみに、この「アアルトベース」の名前には諸説あります。計画案では“Eskimoerindens skinnbuxa(エスキモーのパンツ)”という民族衣装に由来した名前が使われており、カルフラ社とアルテック社(アアルトらが創立した家具メーカー)の手紙の中には“the Paris objects”や“Aalto vases”と記されていたそう。ヘルシンキのサヴォイレストランに置かれたことから、“Savoy vase”と呼ばれることもあります。



[1939年] ふたりのアアルトが描く花

アイノの機能性と、アルヴァの自由。

ふたりの概念が、はじめてひとつのデザインとして実現されたのが1939年の「アアルト・フラワー」です。


アアルト夫妻の世界的な躍進は、もはやフィンランドデザインの躍進と言い換えても過言ではないかもしれません。ふたつの大きな波が、フィンランドを新しい地平へと運んでいったのです。



[1930年代] 企業とデザイナーの関係性

フィンランドのガラス産業で最初にデザイナーとして雇用されたのは、1932年のカルフラ社のヨーラン・ホンゲル。つづく1936年にはイッタラ社でエルッキ・ヴェサントが雇用されました。言い換えれば、当時デザイナーとして正規雇用されていたのは彼ら2人だけでした。

他のデザイナーやアーティストは、シリーズごとにデザインを提供することが多く、いわゆるフリーランスの状態でした。そのため、同じデザインや似たデザインが競合企業でも生産されることもあったようです。例えば、グンネル・ニューマンのデザインはヌータヤルヴィ社やイッタラ社、リーヒマキ社など様々な工房で制作されています。



[1940年代] 第二次世界大戦による制約

ガラスの原料を輸入に依存していたフィンランドでは、第二次世界大戦中、さまざまな厳しい制約と向き合うことになります。当時の主な製品は窓ガラスや瓶、医薬用ガラスなどの必需品に限定され、家庭用ガラスの需要と生産は著しく低下しました。

しかし、幸運にもアートグラスは例外でした。手ごろな価格で手に入るギフトのひとつとして一定の需要があったと言います。加えて、それらのアートグラスは海外の展示会でも評価を得るようになり、フィンランドデザインは「スカンディナヴィア・デザイン」のひとつとして、国際的な地位を確立しつつもありました。



[1950年代] フィンランドガラスの黄金時代

1946年にストックホルムで開催された博覧会が、フィンランドガラスデザインの黄金時代の始まりとされています。当時のデザイナーは1950年代初頭まで自由な制作を許されており、フィンランドの展示はアートガラスのみで構成されていました。

つづく、1951/1954/1957年のミラノ・トリエンナーレでフィンランドは大成功を収め、世界中で確固たる地位を確立します。カイ・フランクやサーラ・ホペア、タピオ・ヴィルカラやティモ・サルパネヴァといった、いわゆるスターデザイナーが現れたのもこの頃。


カイ・フランクと、彼の吹き手だったヤッコ・ニエミ
展示パネルの写真より


1946年のコンペ受賞をきっかけに、フリーランスとしてイッタラ社と関わっていたカイ・フランクは、1951年に競合相手であるヌータヤルヴィ社のアーティスティック・ディレクターに就任しました。対するイッタラは、3年後の1954年にタピオ・ヴィルカラをアーティスティック・ディレクターに指名。

ヌータヤルヴィ社とイッタラ社は、激しく競い合いながらも世界を目指す同志として、「フィンランドデザイン」のさらなる発展へと努めていきました。



[1960年代] 自由貿易と国際化

1961年、リーヒマキ社とアールストロームグループ(当時イッタラ社やカルフラ社を保有)は生産部門の分割に関する契約を行います。リーヒマキ社では透明なガラス容器が、カルフラ社では色付きのガラス容器が製造されるようになり、イッタラ社ではプレスガラスの製造が中止されました。

また、フィンランドは1961年に欧州自由貿易連合に加盟したことでガラスの輸出が伸びるようになりました。1968年、ヌータヤルヴィ社は全自動プレスガラス機械を導入し、高品質なデザインを安定して製造できるようになります。

カイ・フランクが牽引するヌータヤルヴィ社にオイヴァ・トイッカが入社したのは1963年のことです。


デザイン性の向上のみならず、世界的な需要に応える生産性の向上を図っていたのがこの頃。特に、企業間での生産分野の取り決めは、各社の行先を大きく分けたと個人的に思っています。



[1970年代] デザインとマーケティング戦略

フィンランド人デザイナーの世界的な知名度の向上(或いはデザイナーの名前を全面に押し出したマーケティング戦略)に対して、カイ・フランクは慎重な姿勢を見せます。デザイナーと職人による共同制作によるプロダクトを、1人のデザイナーの名前で販売促進しないという決定です。そのため、1965年から1974年までのヌータヤルヴィ社の製品はデザイナーの名前を伏せて販売されました。

あらゆるデザインは共同作業であるという事実と、スターデザイナーの名前によるマーケティング戦略。金銭的な理由から後者が優位に立つことが多いのは現代でも変わりませんが、これはとても根深い問題だと思います。


フィンランドがEEC(欧州経済共同体)と貿易協定を結んだことで、フィンランド市場に輸入ガラスが大量に出回るようになりました。その影響もあり、リーヒマキ社は1976年にハンドクラフトのガラスの生産を中止。ヌータヤルヴィ社では1970年代半ば以降、自動化されたプレスガラスと並んで、職人技術によるアートピースも重要視されるようになりました。



[1980年代] オイルショックと透明ガラス

"Flora" by Oiva Toikka
photo: lumikka

オイルショックの影響もあり、フィンランドのガラスデザインから色が失われていきました。当時のガラス工場は、より経済的なガラス炉を導入しましたが、これらの設備は単色ガラス(通常は透明ガラス)のみの製造が可能でした。例えば、イッタラ社でオイヴァ・トイッカがデザインした「Flora」シリーズは、1978年にカラー展開が中止され、以降はクリアのみの販売となっています。

また、1988年には競合同士だったヌータヤルヴィ社とイッタラ社はオーナーの決定により合併することとなります。以降、ヌータヤルヴィ社は「Iittala」のブランドのもとにガラスを製造しますが、以前の輝きを取り戻すまでには至りませんでした。



[1990年代] 自由な創作のために

"Pulmu" by Oiva Toikka
photo: lumikka

1981年、ヌータヤルヴィ社はアート部門を「PRO ARTE」とひとつのブランドへと改名し、2000年代初頭にかけて個性的なアイテムを数多く製造していました。その部門では、デザイナーやアーティストに自由な創作と実験の場が与えられていましたが、その中でも特にその恩恵を受けたのはオイヴァ・トイッカでしょう。彼の遊び心あふれるデザインは、この頃にヌータヤルヴィ社で多く生み出されています。

ちなみに、同じくフィンランドデザインを代表するアラビア社では、2003年に「Arabia Art Department」が設立され、PRO ARTEと同じように自由な創作と実験の場がつくり手に提供されました。



[21世紀-] 未来へ向けて

このような激動の20世紀を経て、フィンランドガラスの歴史は21世紀を迎えることとなりますが、その先行は決して明るいものとは言えません。

1990年、リーヒマキ社の工場が閉鎖。
2009年、カルフラ社の工場が閉鎖。
2014年、ヌータヤルヴィ社の工場が閉鎖。
2016年、アラビア社の工場が閉鎖。


競い合いながらも共にフィンランドの生活を彩ってきたこれらの企業は、国際社会での熾烈な競争のなかで工場の閉鎖を余儀なくされました。アラビアとイッタラは、共にフィスカルス社の傘下となり現在も製造が続けられていますが、決して安定している状態とは言えません。



旧アラビアファクトリー。

現在は、アラビアとイッタラの歴史をアーカイブする美術館としての機能のほか、Arabia Art Departmentに所属するデザイナーとアーティストの活動拠点になっています。



2022年訪問時のイッタラ工場です。

青色のTシャツにはフィスカルス社、グレーのものにはイッタラ社のロゴが。中にはヌータヤルヴィ社のシャツを着ている職人もいました。



おわりに


元々は、小さな「村」から始まったフィンランドのガラス工房。IittalaもNuutajarviもRiihimakiも工房のある地域の名前がそのまま社名となっています。また、ガラス製造における職人技も、元々は親から子へと代々引き継がれる門外不出のものだったと聞いたことがあります。


不意に現れた外来種によって長年守られてきた健全な生態系が崩れてしまう、ということが自然界で起こるように、地域に根ざした土着的な技術や文化がグローバル化に伴って失われてゆく、ということが人間界でも度々起こります。それは、大型ショッピングモールの建設によって街の商店街がシャッター街へと変わることに似ていますし、巨大資本にのまれて村の工房が衰えていく、まさにフィンランドの現状にもどこか似ています。


フィンランドデザインが世界的に評価されたからこそ、より自由で、稀有な創作物が世に生まれた。そして、それを世界中の人々が知ることができたということは紛れもない事実です。しかし、その一方でフィンランドの国際化により虐げられてしまった文化や土着性も少なからずあるものです。



フィンランドガラスの歴史をこうして俯瞰的に捉え直す過程のなかで、土着性と国際化の複雑な関係性について改めて考えさせられました。美しいものをより多くの人に知ってもらいたい、という欲求は当然生まれてくるものです。ただ、「より」という言葉は時に悪い方向にも働くもので、より安いもの、よりコストパフォーマンスの優れたものを求める市場に、フィンランドデザインはやや遅れをとっているのが現状です。

しかし、だからこそ現存している美しいヴィンテージ品の数々をきちんと守っていきたいとも思うのです。フィンランドデザインとは、本質的な意味で、「フィンランド人がつくってきたデザイン」なのだから。




長い記事をご覧いただき、ありがとうございました。

「フィンランドデザインの歴史」と言いながらも、その全てをひとつの記事にまとめることは到底できず、あくまでも私たちなりの視点での歴史の解釈であることをここに記しておきます。


この記事が、フィンランドの美しきガラスデザインへの理解を深める一助となれば幸いです。




lumikka

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