生を否定しないなら、死も否定しないで。
ごきげんよう怜です。
今日は新聞を読んだ自分の考えを書こうかなと思います。
先日から報道されている嘱託殺人について。
少々否定するような文を書かせてもらいますが、難病患者の皆様に何かと言うよりは安楽死の捉え方の話です。気になるようでしたらお気を悪くされる前にブラウザバックをお願いいたします。
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さて、今朝(7/26)の朝日新聞の一面トップ。
最後まで無料で読めない記事ですみません。
全文は図書館とかで読んでいただければ。
ALS患者さんが薬物を投与されて殺害された事件に関して寄せたメールが載ってるんですね。
「安楽死という希望は彼女が作り出したものではなく、社会が作り出した差別の中で生み出された彼女の叫び」
「私たちが生きることや私たちが直面している問題や苦悩を尊厳死や安楽死という形では解決できないし、そうやって私たちの生を否定しないでほしい」
彼女が安楽死を望んだのはそういう社会だから、とありますがそれがモヤモヤっとしました。
ALSにそこまでの知識はないのですが、体が動かないようになっていってしまう病気ですよね。
確かに今の社会がALSに優しい社会と言われるとそれは全然違うと思うのですが。シンプルに体が動かなくなれば安楽死を望んでしまうんじゃないかな、と思ってしまいました。
つまり、社会がどれだけALSに優しくなっても自分に出来ることが限られているとしたら。体が動かせないとしたら。
そこで一体、社会に何を求めるだろう、と。このメールを寄せた方(増田さん)は何を求めるいるのかが気になりました。
「ALSは安楽死を認めれば解決する」、これは絶対に違うと思います。解決するわけありません。
ALSでも生きていたいと思う方がいるのは当然のことですし、安楽死を認めると生きたいと思ってらっしゃる方が生きにくくなるのかもしれません。
でも、彼らに生きたいという希望があるように「死」という新しい命の価値観があってもいいんじゃないかなと思います。
個人的な考えとして、私は自殺を否定したいと思ったことはないのです。
寿命が尽きるまで生きようと、それよりも前に生を終わらせようと、それはその人の人生でありそれを認められる社会になってほしいと心の中では思っているのですが。これはマイノリティーな考えなのでしょうか…?
いつまで経っても見えない希望のために「生」を続けることだけが正解ではない。「行きたい」と言える社会と「死にたい」と言える社会はうまく共存できないのか。
引用の文章の最後にある「生を否定しないでほしい」。なら「死も否定しないで」と、ふとそんなことを。
まぁ、特に学のない一高校生の一意見に過ぎませんが。
私なら安楽死は差別のある社会からもたらされるものではなく、思い通りにならない自分から生まれるものなんじゃないかな、と妄想してみたお話でした。
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