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「バンクシー」

彼はカンバスを持っていなかった。絵の具も絵筆もなかった。
家の駐車場の壁に描かれた落書き。これが、彼の作品だった。

光、うみねこの鳴き声、音楽…。
目に見えない、そのかたちを、右目でも左目でもないもう一つの目でみて、描き出す。
小さい頃からずっと変わらず、青とピンクと黄色いクレヨンで。ぎりぎりまで、短くなって、持てなくなるまで。

彼の作品には、共通点があった。
他の人にはみえないものであること、でもたしかに存在しているものであること。
そして誰もが「なつかしく思うもの」であった。

いつものように壁に落書きを描く。
家の開け放された窓から、テレビの音が漏れ出ている。
テレビでよく報道される、「バンクシー」
という画家。世界のありとあらゆる場所で、絵を描きつけているらしい。

彼は彼の母親にきく。
「バンクシーは、どういう画家なの?」
「バンクシー?なんだいそれは」
路地裏の猫にだって、厩舎の馬にだってきく。
「バンクシーは、どういう画家なの?」
「にゃあ」
「バンクシーは、どういう画家なの?」
「ひひん」

今日も、彼はナップサックを背負って、自転車を走らせる。
彼の住む港町では、家はみな一様に白い石材でできている。
そしてどの家のポストも、とんがり帽子をかぶった小人の形をしていた。
昔、この町に住んでいた芸術家がつくったものらしい。
小人がかぶる帽子の色は赤、緑、黄色のものが多く、たまにオレンジや紫のものも見かけられた。
小人はみな笑みを浮かべていた。おだやかな笑みのような気もするし、悪だくみをしているような笑みにもみえる。彼は本心の読みとりにくい笑みだと感じていた。

でもたしかに、本心の読みとれる笑みなんてないのかもしれない。

急な坂を滑りおり、角を曲がる。
すぐそこに建っている郵便局の前で自転車を止め、降りる。
郵便局の中は、ミルクの匂いがした。
郵便局長さんが言う。
「出したい手紙はないかい?」
彼はナップサックに手を入れながら言う。
「あるんです。どうしても出したいものが」

彼は一枚の葉書を取り出す。
表には、小人が描かれている切手が貼り付けてあり、宛名のところには「バンクシー 様」と書かれている。

郵便局には白い飼い猫がいた。昼寝をしながら猫の鼻は少し動いていた。名前はシュロといった。


ある晩、彼は夢をみた。
いつものように壁に落書きをする彼。その周りをうろちょろするのは、みな一様にとんがり帽子をかぶった小人たちだった。
「きみはどうして、描くんだい?」
小人のひとりが言う。
「それは、それは見えるからだよ」
「それじゃあ、見えなくなったら描くのをやめるのかい?」
「それは、それは分からない」
彼はいつか、見えるものが尽きるときがくるのではと思っていた。不安をためていた袋をひらくように、口をひらいた。
「そもそもどうしてぼくには見えるのかが分からない」
「‘ついたいけん’だよ」
「え?」
「きみは、右目でも左目でもないもう一つの目で見ることで、’ついたいけん‘しているんだ。ここにいても、山奥にだって、外国にだって行けるんだ」
そうなんだ。
「だから描けるんだよ」


それは朝、彼が郵便物を受け取ると、アルバイトの配達員からきいた知らせだった。
「シュロがいなくなったんだ」

郵便局長さんは昨夜一睡も眠ることができず、この辺りで一番腕がいいと評判の動物探偵さんを呼んでいた。
彼が郵便局に着いたときはちょうど、動物探偵さんが郵便局長さんに、事情をきいているところだった。
動物探偵さんが、メモを取りながら言う。
「シュロちゃんがいなくなったのはいつ頃ですか」
郵便局長さんは、目をしばたたかせながら答えた。
「昨日の昼にはいたんだ。わたしはいつものように、営業のため出かけていて。夜に帰ったときにはいなかった」
「猫の一日に移動する距離からいって、まだそんなに遠くには行っていないでしょう」

猫の足跡を辿るような気持ちで、動物探偵さんは何日もシュロを探した。
郵便局長さんも祈りながら、日々を送っていた。
でもシュロは何日かかっても見つからなかった。

動物探偵さんは、メモをパラパラとめくりながら言う。
「シュロちゃんはもう、となり町まで行ってしまったかもしれませんね。今日はとなり町に行って捜索しようと思います」

となり町は、彼や郵便局長さんが住んでいる港町より少し広く、砂の匂いがする町だった。
次の日の朝、推理通り、動物探偵さんには手柄があったようだった。
「とてもシュロちゃんに似ている猫がいたんです。捕まえることはできませんでしたが、写真を撮ってきました」
郵便局長さんが写真に目を凝らす。
「これは、シュロだ!シュロに間違いない!でもどうだろう、この赤い首輪は見たことがないぞ」
確かにその白猫は、金色の鈴のついた見慣れない赤い首輪をつけていた。
「シュロちゃんはとなり町で誰かに飼われている可能性が高いです」
彼はそれをきくと、郵便局長さんにお願いして、たくさんの葉書を買って家に帰った。

次の日、彼は何百という葉書を抱えてやって来た。郵便局長さんが目をまんまるにして言う。
「一日で書いたのか」
「はい。となり町に住む人、全員分の住所です」
郵便局長さんは口を半開きにして、感嘆とも驚愕とも言える表情で、一枚一枚葉書を見ていった。
「何十年も郵便局で務めているが、いちどにこんなにたくさんの消印を押したことはない」

全てに不足なく貼られた小人の切手、差出人に「バンクシー」の文字。
裏面には、彼がいつも描くような「なつかしいもの」が描かれていた。でも、その時の郵便局長さんには、それがなんだか分からなかった。記憶の中を探そうとしたが、絵と一緒にかかれた宣伝文句のほうに気がそれた。
「素性不明のアーティスト、ついに皆さまの目の前に!!
日曜日の午前11時から、港町の広場で!大迫力のパフォーマンスを刮目あれ!!」

日曜日の11時、広場にはたくさんの人がかけつけた。
素性不明の芸術家のパフォーマンスとだけあって、となり町の住人はみな興奮した様子でやって来た。
中には美術館の関係者、報道記者もいた。

「本当に、できるのか」
広場の外で待機する車の中で、不安そうな顔をした郵便局長さんが問いかける。
彼は目を閉じ、そしてゆっくりと開ける。
「ぼくには、ぼくには描けると思います。そんなふうに、ぼくには見えるからです」

「バンクシー」の「目」を追体験してみる。
まさか、駐車場の壁以外に、ぼくが初めてもったカンバスが、こんなにも大きなものなんて。
彼は、広場にたった、大きな白い石碑を見てそう思った。
それは、やっぱりこの町の家々と同じ石材でできたものだった。

絵とは、「真っ白」にまさに「印」をつけていく作業だと。
彼はパーカーのフードを目深にかぶり、車のドアから降りる。

わっという歓声があがった。
「バンクシーか?あれは、バンクシーか?」
群衆の中で、様々な人の声があがる。
彼は、まっすぐ石碑の方に向かっていき、クレヨンで、まず真ん中に大きな線をひいた。

彼が「バンクシー」に扮し、パフォーマンスを行っている間に、シュロを見つけださなければならない。
郵便局長さんと動物探偵さんは手分けして、全てのとなり町の住人の腕の中を、見て回った。

となり町に住む人のたくさんの服の色が、郵便局長さんの目をちかちかさせる。
青、黄色、ピンク、青と黄色のボーダー、ピンクの花柄…。
全ての服の腕の中を見て歩いていくうちに、それらはだんだんと白と黒、ただそれだけの景色のように見えてくる。
郵便局長さんは額の汗をぬぐう。
焦っている、焦っている。猫は見つからない。
そんな焦りの心が、白と黒だけの世界に見せているのかもしれない。郵便局長さんはそう思った。
彼が、何かをしたのだろうか。
群衆がざわめきを起こす。
そのとき、郵便局長さんにはたしかに、その景色の中、一点にひかりが集まったような気がした。
それは真っ白なミルクの上に、一滴の黒いインクを落とすように。
水の弾ける音。広がる波紋。白と黒がたしかに混ざり合う。猫があくびをして、歯と歯をカプリと合わせる音。

「あ、シュロだ」
そのひかりは、よく見ると、黒い服を着た人の腕の中で、気持ちよさそうに寝ている白猫だった。黒い服には、牛のマークがついた白いエプロンをつけている。牛乳屋さんは、小学校へ届ける牛乳瓶たちの配達途中だった。白猫は、ミルクの匂いから離れられなくて、連れてこられたのだろう。

彼が、クレヨンで線と線を描いているうちに、群衆たちは、誰もがそう思った。
休み時間にはじまる、羅線のない遊び。
みな、感嘆のため息をついた。
むかし、何も知らないぼくたちが、何も分からないぼくたちが、そうしたように。
自由帳に描いた落書きのように。
そんなことを思い出して、ただただそれは、見事なまでに、「なつかしいもの」だった。
そこではじまる「物語たち」。そこでうまれる、ありとあらゆる場所へ行ける「純粋な冒険家たち」。
彼はずっととめていた息を、ようやく吐くようにして、指の動きをとめた。


「バンクシーは、どういう画家なの?」
ぼくたちは何も知らない。何も知らないからそう「見える」。
何も知らないから、見たいものを見たいのかもしれない。

見たいものを見えるままに描く。
信じたいから、信じているから、口ではなく、指を動かす。
「世界」は、そうやって、できていくんだ。

郵便局長さんが、笑顔で言う。
「となり町から、こんなにもお礼の手紙が届いたんだ」
たくさんの手紙、彼は一枚一枚に目を通す。
「幼い頃の思い出を、思い起こさせてくれてありがとう」
「思い出したよ、ぼくはバイクをつくりたかったんだ」
「わたし、やっぱりケーキ屋さんをやろうと思うの」
どの手紙にも、それぞれの目で見た「なつかしいもの」が、それぞれの指で描かれてあった。
「これは、ぼくからきみへ。シュロを見つけてくれたお礼に」
郵便局長さんは花束を、彼に手渡した。

ナップサックを背負って、今日も彼は自転車を漕ぎ出す。
手紙の束はナップサックからとび出して、彼の頭の高さまでとどいた。
その上に花束を逆さにしてのせる。
路地裏の猫にも、厩舎の馬にも、彼はとんがり帽子をかぶっているように見えた。
彼の笑みは、夕日に当たって、誇らしげに見えた。

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