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天衣無縫。孤高の大怪人 南方熊楠を訪ねて〜南方熊楠顕彰館 / 和歌山① 21/47

こんにちは。
今回「行かねば」と呼ばれたのは和歌山。まずは田辺市にある「南方熊楠顕彰館」へ。

南方熊楠顕彰館

荒俣宏の世界に浸り、水木しげるの『鬼太郎』で育った私が惹かれているのが、博物学・民俗学の巨星 南方熊楠(みなかた くまぐす)。
(記事「暗夜の住民に会いに。「水木しげる記念館」 と「鬼太郎列車」 / 鳥取④」)

南方熊楠(1867.5.18~1941.12.29)は、博物学、民俗学の分野における近代日本の先駆者的存在であり、同時に植物学、特に「隠花植物」と呼ばれていた菌類・変形菌類・地衣類・蘚苔類・藻類の日本における初期の代表的な研究者です。

南方熊楠顕彰館

2006年5月14日にオープンした南方熊楠顕彰館は、遺された蔵書・資料を恒久的に保存し、熊楠に関する研究を推進し、その成果の活用を図るための施設。

採光が美しい館内に入ると、熊楠が情熱を注いだ粘菌の世界が広がっていました。

鍋屋を営んでいた熊楠の父親のもとには鍋釜を包む反古紙(ほごがみ)が積まれ、熊楠はそこに書かれた絵や文字を貪り読み成長したといいます。

岩井屋という酒屋の息子津村多賀三郎から『和漢三才図会』を借り、数年がかりで105巻を写し取ることもした。読み、写し、記憶する、これが少年熊楠の日常だった。

南方熊楠顕彰館

大学予備門(現 東京大学教養学部)に入学してからは、「授業など心にとめず、ひたすら上野図書館に通い、思うままに和漢洋の書物を読みたり」という生活だったという熊楠。カッコイイ!

その後米国、そして大西洋を渡り英国へ。「ネイチャー」誌の創刊25周年記念号にスペンサーやダーウィンなどと肩を並べて論文が発表される。そして大英博物館の嘱託となり、孫文とも親交を深める。

特に「隠花植物」と呼ばれていた粘菌の研究に特異の足跡を残す。

熊楠が発見した粘菌の新種「ミナカテラ・ロンギフィラ」。

動物でも植物でもない粘菌という生物に惹かれ、生涯情熱を注ぎ続けた熊楠。生と死、陰と陽、物質と霊魂の狭間への興味。

面白いことに熊楠さんは隠花植物にしか興味がない。なぜかって言うと、顕花植物だと生命の本質が花に出てしまう。仏教で言うところの顕教でしょう。そんなのには興味がない。本質的なものは目に見えない所にあると、彼は思っていたわけですね。それが密教だし、隠花植物だった。

『猫楠』対談 水木しげる x 中沢新一

冬虫夏草を思い出した。
チベットの海抜3000メートルの奥地に生息するコウモリ蛾科の幼虫に寄生するキノコ。昆虫とキノコの結合体が「冬虫夏草」。
蛾の幼虫に菌が付き、体内で成長し最終的には昆虫の形を残した菌に取り変わっている…これが冬虫。菌が夏に発芽したものが夏草。

(記事「来た、見た、買った 香港①」)

窓からは収蔵庫。

熊楠が遺した約25,000点に及ぶ所蔵資料が収蔵されています。

素敵な棚!

昭和天皇の南紀行幸の際、熊楠は動植物の標本を大きなキャラメルのボール箱につめて持参。

昭和天皇が大蔵大臣で民俗学者でもあった渋沢敬三に語った熊楠の逸話に「桐箱ではなくキャラメルの箱でいいじゃないか」というのがあります。
なんてチャーミング!

「南方には面白いことがあったよ。長門(御召艦)に来た折、珍しい田辺付近産の動植物の標本を献上されたがね。普通献上というと桐の箱か何かに入れて来るのだが、南方はキャラメルのボール箱に入れて来てね。それでいいじゃないか」

南方熊楠顕彰館

熊楠が参照利用していたというブリタニカ百科事典 第9版(1875–1889)。
2階の交流・閲覧室に置いてあるものは、南方熊楠顕彰会が、研究・参照資料として新規に購入したもの。

自由に手にとって見ることができます。

菌類、羊歯類〜色々見られる。

隠花植物。地衣類(菌類と藻類の共生体)。

『この世の森羅万象は互いに関連し合いながら存在していること、丹念に物事を観察していけばそれらの現象をすべて理解することが可能である』と説く「南方曼陀羅」。

南方曼陀羅

南方熊楠邸

熊楠は1916(大正5)年からこの邸に住んで、菌類や植物、民俗学などの研究に打ち込んだそうです。

元は田辺藩士の屋敷だった約400坪の敷地には、母屋、土蔵、貸家などがあり、書斎は転居前に住んでいた借宅から移築したそう。

窓から母屋の勝手口を覗くと

熊楠関連のスクラップと、

熊楠が大切に飼っていた亀の標本。

熊楠は亀の甲羅に研究材料の淡水藻を生やして蓑亀を作るという実験を試みる。これが成った日、親友で医師の喜多幅武三郎が招かれ、「これが浦島太郎の乗った亀や、永いことかかってようよできたことや」と相好を崩したという。なんて天真爛漫なエピソード。

美しい母屋。

南方熊楠存命中の邸内復元図。なんてこの邸への愛情に溢れた図なの!と見入っていたら、

邸の説明をして下さった橋本邦子さんの手によるものでした。熊楠の妻 松枝さんの遠縁にあたる橋本さん、幼少期には毎日ここで過ごしたそう。

邸内には大きな楠や柿、みかんの木があり、柿の木から新種の変形菌を発見するなど、庭は研究園そのもので、お手伝いさんは落ち葉を掃除するにも気を遣ったそうです。

ひとつひとつの植物たちが丁寧に描かれた邸内復元図。優しい図を家に飾りたくて「売ってないんですか?」と。残念ながら商品化されていないそうです。

書庫

およそ2万5千点以上の文献などが収められていた土蔵。

森羅万象、自分が興味をいだくあらゆるものを記録すること、それが熊楠のスタイルでした。

南方熊楠顕彰館
美しい亀甲金網

書斎

己の心の赴くまま、興味のある方へ。
私が南方熊楠に惹かれるのは、無邪気で純真な天真爛漫さ。そして「見えないけれど存在するもの」に突き進む好奇心。

粘菌の世界って、死んだと思っているのが、生きているような状態でしょう。我々の世界だと、今生きているのがすべてと考えていますが、逆に死後の世界がホントだと考えられなくもないですからね。ないんじゃなくて、あるけど分からない。だから、熊楠はつっ突いてみたんでしょうね。

『猫楠』対談 水木しげる x 中沢新一

霊性が高い方だったんだろうな。
でもそれは特別な人だけが持つものではなくすべての人に備わっている力だと思う。ただ忘れてしまっただけ、ないと思ってるだけ。きっと素直に自分の感性に従えば蘇るもの。

奇人・南方熊楠氏は、若い時は誰のいうこともきかず、自分の思い通りの生活に進んだ。長じて、リテレート(文士)なる生活、即ち「金」のために働かないという生活方法で、この人生の荒波を乗り切ろうとするわけだが、どうも、晩年には、それがうまくいかず苦しむわけだ。
地上に生まれて、「エサ」を求めて歩き回るのが、生命をもつものの宿命なのだが、熊楠は、それはあまりやらず、自分の好きな「道」を驀進した。これは幸福なことで、人のこととか、家族のことなんか考えると、なかなかできないことだ。
また彼は、一生「童心」を失わなかった。

『猫楠』あとがき 水木しげる
庭のセンダン。熊楠は臨終の床で「天井に紫の花が咲いている」と詩のような言葉を遺したが、それは夢うつつに顕れたセンダンの花だろうといわれている。

大らかで無邪気な熊楠のエネルギーを感じながら、「たな梅」の南蛮焼と牛蒡巻を買って白浜に向かいます。

続く。

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