才能に愛されるのか、才能に縛られるのか映画「蜜蜂と遠雷」
楽器ができるわけでもなく、束の間習ったエレクトーンも自分のものにできずに終わった私からするとかなり遠い世界の話ではあるのですが、地元で開催される音楽コンクールが題材と言うことで映画「蜜蜂と遠雷」を観ました(アマプラで視聴可能)※恩田陸さんの同名小説が原作です。
世界で活躍するための登竜門とも言える芳ヶ江国際ピアノコンクール。
今年エントリーしたのは、幼い頃から天才少女ともてはやされるも過去のトラウマから一線を退いていた栄伝亜夜(松岡茉優)、名門音楽学校に通い才能を認められつつある貴公子マサル・カルロス(森崎ウィン)、楽器店に勤めるも夢を捨てられず妻子や地元の応援を受け最後の挑戦に挑む高島明石(松坂桃李)、今年逝去した伝説的な音楽家ホフマンの推薦を受け参加した謎の少年風間塵(鈴鹿央士)。例年になくレベルが高いと言われるコンクールの本戦出場をかけた挑戦の日々を描く。
幼い頃からずっと続けていること、果たしてあるだろうか。
一つのことにフォーカスし、それだけを続けていられる、そんな人生は羨ましいとは思うけれど、この映画を観てずっと一つのことに打ち込んで、それ以外を知らないと言うことは「その世界でしか生きられない」と言うことで、本当はすごく怖くて苦しいことなのかもしれないと思った。その恐怖を打ち消すために、もっと深く、もっと高くと際限なく探究するのかもしれない。
この物語に登場する4人は、まさにピアノに魅入られた人たち。最初は上手だね、と褒められたとかそんな些細なことだったかもしれない。才能があって、夢があって、今まさにその入り口に立っているけれど後一押しが欲しい人々。
4人はくっきりと区分けされている、落ちぶれたかつての天才少女、将来を期待された優等生、崖っぷちの夢追い人、そして破天荒で理解しづらい感覚者。
丁寧に正確に完璧に、演奏に求められる最低限のことはもちろん、その先へ行かなければ生き残るのは難しい世界。追い込んで練習した先に見えてくる「何か」。それを得たくて表現者たちはさらに自分を追い込み、重ね、研ぎ澄ませていく。
ホフマンが亡くなる前にこのコンクールに送り込んだ風間塵は、審査でも意見が真っ二つに分かれるほどに感覚的なタッチでみんなをざわつかせる。彼は養蜂家である父親について様々な場所を旅するように暮らしてきた異例の経歴の持ち主で、自宅にピアノすらないままホフマンにその才能を見出された。彼はホフマンに言われる、世界は音に溢れているから聴きなさい、そして世界の音を奏でる人を見つけなさい。彼がコンクールに参加した動機の一つだ。
そして、幼い頃から母親と連弾をするのがひたすら楽しかった亜夜。
世界が鳴っている、そしてあなたが世界を鳴らすのよ。
そう囁かれた幼少期からずっと母親と一緒にピアノを奏でてきた亜夜。ところが母親を亡くした13歳のある日からピアノに触れることが出来なくなった。これで最後にする、そう決めて出場したコンクールでは過去のトラウマに苦しみながらも、最後には彼女は見つける。音に満たされた世界、それに引き込まれる自分。私が鳴らしている、あの遠雷でさえも。
ピアノコンクールは、たった1人で世界に立ち向かう、そういうものだと思っていたけれど、そこに携わる人たち、出場者たち、みんなが響きあって鳴らしあって個人以上のパワーが高まる。そんな場所なのだなと感じた。それはホールに止まらない無限の広がりがある。
自爆するのも、諦めるのも、より高みを見つけるのもその人次第。もしかしてそれが「才能」と呼ばれるものなのかもしれない。
切磋琢磨する世界に妬みなど付け入る隙がなく、みんながそれぞれの才能を認め、それでも自分の音を信じて突き進む。その姿の凛々しさに惚れ惚れする作品だった。
特に悩み苦しみながら、ようやく自分の音を突き詰めた時の亜夜(松岡茉優)の変貌ぶりは、サナギから孵った蝶々のように妖艶で美しかった。
音楽に真剣に取り組んでいる人、そういう過去がある人にはもっと違う見方があるのだろう。ただ、音楽の知識がなくても世界観には没頭できる。それほどに描かれる4人の個性のぶつかり合いは魅力的。
途中のカットでちょっと理解できなかったところがあったのと、指揮者役の鹿賀丈史が思ったよりぬるくて大御所指揮者に見えなかったのがやや残念だったかな。
※写真は公式HPよりお借りしました
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