天国を信じることの意味

天国を信じるなんてバカみたい、神様なんていない、そういう人もいると思いますが、だちょっとだけお時間をくれませんか。途中までで構わないですから。

私の友人夫婦は、初めての子どもを交通事故で亡くしました。生後3ヶ月でした。
よく笑う子で、賢く、なつっこい子でした。

これからどんな風に育っていくのかな、いつごろ歩き出すのかな、おしゃべりな子になるのかしら、それともシャイな子になるのかしら、と私も思いを巡らせていました。


でもその子の命は、一瞬で断ち切られました。
原因は相手のスマホ運転による交通事故です。一緒に乗っていた大人たちは助かりましたが、彼はだめでした。

お母さんも怪我をして入院しましたが、助かりました。しばらく精神的なダメージが大きかったのですが、彼らは、また子供を作ることを決めました。

「あの子を思い出して辛くない?」と、私は聞きました。

「妻にあそこで止まってほしくなかった。苦しみの中で生き続けて欲しくなかった。それに彼はもう今、とってもいいところにいる、ここより良い場所にいるんだ。神様に守られて、苦しむこともなく平和な場所にいるから、安心なんだ」。
友人はそんなことを言ったように記憶しています。

それを聞いて、天国と神様を信じる事は、こういうことかと合点がいったのです。

生きていると理不尽なことや、自分ではどうしようもできないことがたくさん訪れます。
でもその時に、神様や天国、信仰がよりどころになるのです。答えが出ないことの答えになるのです。

宗教上のコミュニティーが頼りになることもあります。同じような経験をした人が、兄弟姉妹として寄り添ってくれるのです。疲れているときは励まさず、見守ってくれます。食事をする気力がないときは、誰かが持ってきてくれます。
買い物や着替え、病院への送迎も誰かがやってくれます。
そこに甘えは無いのです。あるのは許しであり、限りない寛容さです。

認知症との戦いの後、お母様を失ったクリスチャンの友人も、「母は苦しんだけれど今はジーザスのそばにいて、もう怖い思いも苦しい思いもしない。だから私は悲しくない」そんなことを言いました。

彼女もレバノン出身で、家族全員が中東戦争を経験しています。

宗教を信じる人たちに共通しているのは、安らぎです。そして他の人の寛容さです。

特に困難の中にある人へのそれは、とても優しく温かい物です。たまに勧誘をしてくることもありますが、悪気は無いのです。

信仰を持つことには、様々な議論がありますが、決して押し付けだとか、侵略、ジェンダーの固定化やテロリズムだけでなく、良い側面もあるのです。

余談ですが、この話の序盤に出てきた人々は、レバノンのサイダ(中学校も地理で出てくるシドン)に住むムスリムです。

レバノンは常に政情不安で、テロも日常茶飯事です。決して裕福な国でもなく、それなのに生活費は高いと言う暮らしていくのにとても大変な国です。

そんな状況の中で、大量のシリア難民や、パレスチナ難民が流れ込み、特に子供たちを支援していた友人の弟は、殺害予告まで受けています。

それでも同じムスリムだから、子供たちが困っているんだからと活動を続けました。

子供たちに勉強を教え、セラピーを受けさせ、絵を描かせました。絵画セラピーです。
その中には、戦車やマシンガン、血まみれで倒れている人や、破壊されたビルばかりの絵もありました。そんな絵を小さな子供たちが描くのです。家族を失った子もいます。特に親を殺害された子供の心理的ダメージは計り知れません。

小学校を終了した後は、職業訓練校で、技術を身に付けさせ、自力で生きていけるようにサポートします。家具やインテリアを作っています。カフェもオープンしました。

今現在コロナ禍の中どうなっているか分かりませんが、友達に聞いてみます。ぜひいちどウェブサイトを覗いてみてください。

よろしければサポートをお願いします。今後の執筆活動や、学び続ける意欲に繋がります、大学院入学を目指しています。