熱の伝え方
東新宿駅を出てすぐのロイヤルホストで、大学時代の友人「嶋津幸樹」と話した。
彼は大学1年生の時点で、学習塾を経営していた。学業と事業を忙しそうに両立する彼の姿は、田舎出身の私には衝撃的で、密かに彼に憧れを抱いていた。
彼の現在の肩書きは「ブリティッシュ・カウンシル公認IELTSエキスパート」というらしい。つまり、IELTS指導者の中でトップにいる人物である。
ロイヤルホストでドリンクバーを飲みながら、日本の教育に関する専門的な話や、今後の展望についてなど、かれこれ3時間くらい話した。
驚いたのは話した内容ではなく、彼の熱量。「俺が日本の教育を変えてやる」というパッションに圧倒されてしまった。
社会で経験を積んでいくと、どうしても一歩引いた視点から物事を考えるようになる。自分にできること、得意なことが分かってきて「俺が俺が!」という自我が薄れてくる。
しかし彼は違った。大学を卒業してから10年以上経った今でも、主観の中で生きることができているのだ。
普段Twitterで彼の発言をみると、とてもドライで批判的な人である印象を受ける。しかし、実際に目の前で話している男は、目をキラキラさせながら実に楽しそうに物語を語っていた。その印象は180度違う。
書き起こされた文字から得る情報と、実際に五感を通して得られる情報で「こんなに印象が変わるのか!」ということが衝撃的だった。
最近読んだ本で一番印象に残っているのは、朝井リョウさんの「正欲」という作品だ。
正確な表現は覚えていないのだが、この作品で伝えたいメッセージは以下のようなことだと受け取った。(以下、少しネタバレが含みます)
「人はそれぞれ自分の中でイメージしている多様性という感覚がある。 "多様性を受け入れよう" というメッセージが昨今飛び交っているが、その多様性という言葉はあくまで自分が想像できる範囲のことだけを指している。」
読んでいる時に、まさに自分も自分が理解できる多様性だけで物事を判断していたかもしれない、と胸の奥がゾワゾワした。
多様性という言葉は、異文化理解という文脈で使われることが多いと思う。しかし、同じ文化圏に住んでいる人たち同士でも、そこには確かに多様性がある。
これまで、自分が理解できない行動をしている人を「ヤバい奴」として一蹴していた。そんな自分をものすごく恥じた。
本作からはそんな "熱" を受け取った。
対面で人と話すことだけが熱を伝える手段ではなく、メッセージ発信者の武器となる方法で表現することが大切なのかもしれないと思った。
熱は周りに伝わり、全体の熱量を高める。この熱が人の心を動かし、行動変容を促す。
私は文字を書くのがとても苦手で、この1000字ちょっとの文章を書くのにもタリーズで2時間以上は頭を捻らしている。書き終わった後の文章をみると「結局、何が言いたいかわからない文章だな」と目を背けたくなる。
ある日、友人から、
「ルークは直接話してると、なんだかよく分からない安心感があるよね」
と言われた。「よく分からない」は余計なお世話だと思ったが、自分一人では気づけない考えだった。
人と直接会って話すと、何だか元気になり「よし、頑張ろう!」という気持ちが沸き起こることが良くある。多分、私は文字で何かを伝えるよりも人前で直接話す方が得意なんだろうな、と思った。
コロナの影響もあり、コミュニケーションがネットワーク上で完結すことが増えた。その数年間、心が平熱を保っていた感覚がある。
1週間の出来事を振り返っても、すごく嬉しかったことや怒ったこと、悲しかったことなど、感情の温度が急激に変化する機会が極端に減った気がするのだ。
心が平熱だと、毎日が何もなかったかのように過ぎていく。ここ数年間はものすごく長かった気もするが、記憶に残っていることがあまりない。この感覚が、あと数十年続くと思うとゾッとした。
そんなことを感じていた時だから、幸樹との話は刺激的で「自分も、もっと人に会って話したい」と思えたのでした。