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江戸後期の「安政大地震」はかわら版でどう伝えられたのか?



【地震発生】 嘉永7年11月5日(1884年12月24日) 安政大地震発生

1884年の安政大地震の様子を記した『大地震末代噺種』(大阪市立図書館蔵/出版地不明・出版者不明)

まずはこの絵、『大地震末代噺種』(大阪市立図書館蔵/出版地不明・出版者不明)を見てみよう。
嘉永7年11月5日(1884年12月24日)に大阪を襲った大津波の様子を描いたもので、人がトランポリンで跳ねたように飛び、船が破壊され、浮かぶものみんなまとめて波がのみ込んでいく様子が描かれている。

江戸時代後期の嘉永7年11月5日(1884年12月24日)、南海トラフを震源とする東海・東南海地震と南海地震が1日ずれで発生。地震発生から32時間後、大阪に津波が襲来した。
この地震によって元号は「嘉永」から「安政」に変更され、今では両地震はまとめて「安政大地震」と総称されている。このときの様子が『嘉永七年大地震大津波』として記録され、今も残されている。この絵は、そのうちのひとつだ。

この絵のほかにも、安政大地震の様子を伝えるものは数多く残されており、かわら版もまた、数多く残されている。
かわら版は一般的に一枚の紙でできており、大見出しがあり、テキストだけのもの、地図や絵が載っているものなど様式はさまざま。欄外に「嘉永七年寅霜月四日辰上刻より凡半時計り之間」等、出来事が起こった年月日が記載されているものもある。
かわら版は時事性や速報性の高いニュースを扱い、天変地異、大火、心中など、庶民のあいだで関心の高いものを盛んに報じた。街頭で読み上げながら売り歩いたことから、「読売(讀賣)」ともいう。木版摺りが一般的だ。

ある出来事が起こる。するとかわら版が逐次発行される。一度発行したら終わりではなく、予断を許さない状況だと、逐次発行されるのだ。これらを順を追って見ていくと、興味深いことが分かってくる。
からわ版は安政大地震をどのように伝えたのか。順を追って見てみよう。

【速報】 初期段階は箇条書き短文集でほぼtwitter

『大地震につき大破略記』(大阪城天守閣蔵)。大地震の様子がピンポイントで箇条書きにされている、いわば速報集。ツイッターのタイムラインのよう。情報はアトランダムに並び、整理されていない。

まずは、地震発生直後に発行されたかわら版『大地震につき大破略記』(大阪城天守閣蔵)。見ると、素っ気ないものだ。一見、なにかのリストにしか見えない。
「一、天満天神境内井戸家形くずれ。同所土蔵くずれ」
「一、中之島延岡御屋鋪鎮守八幡宮絵馬堂くずれ」
「一、天満梅がへ寺町行あたり正客寺境内金毘羅社絵馬堂くずれ」
「一、堂しま桜橋南詰西江入家五、六軒くずれ」
などなど。全部で25ヶ所の被災状況がピンポイントで箇条書きされていて、まるでツイッターのタイムラインのようだ。ほとんどが建物の破損情報。速報集といったところか。この時点では、災害の性質や全体像はまだ見えてこない。

【続報】 見出し、挿絵が加わり、テキストも充実しはじめる

『本しらべ大坂大地震大破略記』(大阪市立図書館蔵)。箇条書き情報が追加され、そのぶん、文字が小さくなる。重要な最新情報は大きな文字で記され、情報が整理されはじめている。最後に津波情報が急きょ追加されたような印象。

『本しらべ大坂大地震大破略記』(大阪市立図書館蔵)は、その続報だ。
前出の『大地震につき大破略記』の箇条書きをベースに加筆されており、ピンポイントの情報が次々と増えていく。ポイントが増えていることから、被害が広範囲に及んでいることが、少しずつ分かってくる。
スペースに収めるために、文字はどんどん小さくなり、デザイナー泣かせなのが伝わってくる(笑) ただ、重要な追加情報が大きな字で書かれるなど、デザイン的な処理がなされはじめているのは興味深い点だ。挿絵もある。

また、このかわら版では、最終段に、「同五日くれ六半より安治川口より大つなみ。凡千石舟より小舟数しれずつぶれ、并死人かずしれず」とあり、住吉橋、幸橋、汐見橋、日吉橋、黒金橋、金谷橋、四天王寺の伽藍、生魂玉神社の神楽所、下寺町の両国寺本堂などがつぶれたと続いている。
どうやら、地震により大津波が発生し、水害による甚大な被害が発生していることが急きょ盛り込まれたようで、締切間際に重大な情報が飛び込んできたような印象を受ける。

【詳細】 地震から津波情報に特化し、被害の甚大さが伝えられる

『大阪大地震津波之図』(大阪市立図書館蔵)。 大津波による被災地域が地図で表され、水害による被害が甚大であることがわかり、安政大地震による主な被害は水害であることがわかるようになる。

その後に発行されたかわら版『大阪大地震津波之図』(大阪市立図書館蔵)では、すでに地震から津波の被害情報に特化したものになっている。
中央部分にある、いくつも船が転覆している川は道頓堀で、その南側と木津川より西はほぼ水没しています。
地図に添えられたテキストには、「怪我人・死人夥数」とあり、沈んだ船は数知れず、水没した地域は「白海の如く」で、こんなことは「前代未聞」だと書かれている。
このかわら版を見た人は、マジか!と思ったに違いない。大津波による被害が想像を超えてはるかに甚大で、水害こそがこの地震による主な被害であることが分かってきた。

【まとめ】 全国の被害状況が載り、広範囲に被害が及んでいることがわかる

『諸国大地震大津波細見噺の種』(大阪城天守閣蔵)。大阪以外の地域の被災情報が挿絵付きで記載されており、全国規模の大震災であったことがわかるようになる。

さらに『諸国大地震大津波細見噺の種』(大阪城天守閣蔵)では、大阪の被災情報のみならず、大阪以外の「諸国」の被災情報が掲載されている。
大阪では地震による出火はほとんどないのだけれども、東海道の宿場町や江戸では出火の被害があった。そのため、出火情報の項目が設けられている。
東海道大地震出火、江戸大地震出火、京都大地震など、大阪以外の情報は飛脚を通じて調べられ、「此書一枚にて国中ことごとく相分り重宝の書なり」とある。
このことから、この地震が関東から東海道、関西にまでまたがる広範囲に被害をもたらしている大地震であることが、人々に知られるようになっていく。
後年の僕たちが見るべきは、南海トラフが動くと、かくも広範囲に被害をもたらすのだということか。

【ルポ】 現場からのルポルタージュも掲載される

さらに、テキストには変化が見られる。
大津波による被害が深刻だった川口(西区)を例にとると、「嘉永七寅十一月五日申ノ刻、西の方より雷のごとくになり、ふしんに思ひしが、其夜五ツ時沖手より大津波打来り、沖の大船不残矢を飛す如く、其勢にて川々の橋打流し。浜手の家は無別条地しん故に船をかりて逃居る人も多く、然るに其人々皆々水死と成、大船は船頭・加子死こと其数不知。大船は二千石より千石以上の船不残、小舟は大船の下敷となり、不残大荒なり」とあり、箇条書きだったヘッドラインはひとかたまりのテキストに変化している。
さらに、現場の被災者にインタビューした情報が挿入され、さながらルポルタージュのように情景が描写され、客観情報をベースに主観情報を加えることで読み手が情景を想像しやすいよう切迫感を出そうとしていることが、ここからは読み取れる。
また、先の『大阪大地震津波之図』にはなかった、船で逃げようとした人がたくさんいて、その人たちがみんな亡くなったことも書かれている。つまり、目で見たリアルタイムの情報だけでなく、そこに至るまでのプロセスの聞き取りがなされている、ということだ。

【保存版】 過去事例が参照され、教訓が記される

『大坂大地震大津波、諸国大地震大津波ならびに出火』(大阪城天守閣蔵)。右が大阪の被災情報で左が全国の被災情報。情報がまとめられ、過去の震災史が掲載され、教訓が示されたパンフレットのような保存版。

『嘉永七年寅十一月大坂大地震大津波』(大阪城天守閣蔵)では、なぜ多くの人が船で逃げようとしたのかが詳しく書かれている。
「地しんにおそれ、町々の老若男女貴賎の別ちなくうろたえさわぎ」、思い思いの船に乗るも、「ゆりつぶされるうれひなしと悦ぶかいも、あらかなしや一時に津波押かかり、舟もろともに水底へひつくりかへりし、啼き声は大坂中へひびきわたり」とある。
地震で足元が揺れる恐怖と建物が倒壊する危険から船に乗り安心したものの、津波が押し寄せて船もろとも転覆したのだった。

この『嘉永七年寅十一月大坂大地震大津波』は『嘉永七年寅十一月諸国大地震大津波ならびに出火』(大阪城天守閣蔵)と合わせて1枚となっている。右半分が大阪の、左半分が全国の被災情報。詳細なルポルタージュがあり、具体的な死傷者数の地域別まとめがあり、凄惨な挿絵があり、ぎっしりと情報が詰め込まれている。

また、大半のかわら版では「前代未聞」とあるところ、このかわら版では「宝永年中大阪大地震大津波次第」という小見出しとともに、過去の宝永大地震の地震と津波の概要が掲載されている。

宝永大地震とは、江戸時代の宝永4年10月4日(1707年10月28日)に発生した、記録に残る日本最大級の地震だ。この地震もまた、南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定されている。

【記憶を残す】 萬燈供養で記憶を残し、次世代に伝える

宝永大地震から50年後の1756年に梅田墓で萬燈供養がおこなれたことを伝える「大坂梅田墓萬燈供養図」。

この宝永大地震から50年忌にあたる宝暦6年(1756年)、梅田墓にて萬燈供養や諸宗大法事修行がおこなわれたことや、宝永大地震から嘉永7年の安政大地震まで数えて148年になることなどが書かれている。
ここに至って、過去の災害史が参照されるようになった。

1707年 宝永大地震
1884年 安政大地震

このように、安政大地震のときに発行されたかわら版を順を追って見ていくと、地震発生当初は箇条書きによるヘッドラインのみで、やがてそれらはまとめられていく。
その後、詳細な取材がおこなわれ、現場に赴いて聞き取りがおこなわれ、ルポルタージュの体裁をとるようになっていく。
同時に、全国規模の情報が集約され、災害の全体像が把握されるようになり、最後には、過去の災害と関連付けられ、一連の出来事としてまとめられ、保存版がつくられる、という流れが見えてくる。

、『火之用心 大坂今昔三度の大火』(大阪城天守閣蔵)。過去の火事の被災範囲と概要がまとめられ、心得が記され、教訓として残そうとする意思が見える

火事におけるかわら版も同様で、火事が起こるたびに発行されるかわら版とは別に、『火之用心』(大阪城天守閣蔵)と題した、大阪今昔三度の大火をまとめたかわら版が残されている。
過去の火事の被災範囲の地図と概要が書かれ、心得が記されており、まさに保存版のハザードマップのようになっている。

速報集から保存版まで、たくさんのかわら版を見ていると、インターネットが主流の現代と同じだなあと思えてくる。
情報の信憑性が疑問視されるものが混じっているところも、時間が経つとまとめサイトができるところも、インターネットとよく似ている。今も昔も、大きな出来事を記録し、残そうとする気持ちはおなじようだ。

宝永大地震の50回忌が梅田墓でおこなわれたことから、50年経ったあたりまでは、人々のあいだで宝永大地震の記憶が残っていたことがわかる。また、安政大地震発生の翌年、安政2年(1855年)には、『被害者追悼供養の碑』が建てられ、その碑文は『大地震両川口津波記』(大阪市立図書館蔵)として、かわら版にもなった。

宝永大地震の津波のときにも船で逃れようとした人々がいて、波にのまれてたくさんの人々が亡くなったこと、それを伝え聞くことがほとんどなかったため、今回の大津波でもおなじように船で逃げようとして多くの人々が亡くなったことが記されると同時に、大きな地震が来ても船で逃げようとしてはいけない、と心得が記されている。

【記憶をつなぐ】 記録を残すだけでは足りない。記憶をつなでいかなくては

安政大地震が発生したとき、約150年前の宝永大地震のことは人々の記憶からは忘れられていた。
それは「前代未聞」というかわら版の記載から明らかだ。
でも、記録は残っていた。大地震と大津波を経験して、人々は忘れていた宝永大地震の記録を掘り起こしたのだ。
このことから、記録を残すだけでも、まとめるだけでも足りないことがわかる。記憶をつないでいかなくてはいけない、ということがわかる。

『大地震末代噺種』(大阪市立図書館蔵) に描かれた、擬人化された津波。

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