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母を知る、父を知る。-2

【 自己紹介 】

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このブログでは、2019年7月にうつ病を発症し、それをきっかけにその年の12月からブログを始めて、それからブログ更新してきました。しがないサラリーマン弁護士である僕が、日々考えていることを綴っています。

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【 今日のトピック:出自を知る権利 】

今日は、昨日の続きです。昨日は、「母を知る」ことについて書きました。今日は「父を知る」について書こうと思います。

昨日は、「母は明らか」ということを根拠に、「子どもは当然母親が誰か知っている」と主張しました。

代理母という技術が生まれるまでずっと、人類(「ホモ・サピエンス」という生物)は、全員、母親から分離する形で生まれてきました。

だから、「母は誰なのか」は常に明らかで、だからこそ、子どもは「母が誰か」を常に知っていました。

じゃあ、「父は誰なのか」は明らかではないのでしょうか。

確かに、父親は出産に参加しません(=父親の身体から分離して子どもが生まれてくるわけではない)。

でも、僕は、「父親が誰かわかっている」のが普通な気がしています。

そもそも、「父親が誰かわからない」ということは、女性(=ヒトのメス)が、1人の男性に限らず、いろんな男性(=ヒトのオス)と子作りしまくっていることを前提としています。

まあ、これが道徳的によくないかどうかは置いておいて、純粋に生物学的・進化論的に考えてみましょう。確かに、ヒトのメスは、物理的には、オスを限定せず、誰彼かまわず子作りすることができます。

特に、ヒトのメスには発情期がありません。むしろ、1年中排卵が繰り返されていて、その排卵に合わせて子作りすれば、いつでも、つがいになっているかどうかにかかわらず、どのオスの子どもであっても懐胎可能です。

(このように、発情期が限定されず、1年中懐胎可能という繁殖能力の高さも、ヒトという生物がここまで増殖できた要因なのかもしれません。児童相談所で働いていると、ヒトという生物の繁殖能力の高さに驚く場面にも出くわすことも多いです。)

じゃあ、実際に、ヒトのメスは、オスを限定せずに子作りするのでしょうか。これは、メスにとって、「オスを限定せず子作りすることがオトクかどうか」ということを考えなければなりません。

女性にとっては、生まれてくる子どもは、必ず自分の遺伝子を受け継いでいます。だから、進化論的には、生まれてくる子どもの命を将来につなげなきゃいけない!という強いバイアスがかかっています。

そもそも、進化の過程を乗り越えられたのは、自分の遺伝子を後世に残そうという利己的な遺伝子のみです。利己的でない遺伝子、つまり、自分の遺伝子を後世に残そうとしなかった遺伝子は、既に淘汰されているので、残っていません。

だから、現代に命を授かった生物の全個体が、この「利己的な遺伝子」を受け継いでいます。

そうすると、ヒトのメスは、利己的な遺伝子に突き動かされて、生まれてくる子どもの命を必死で守り、成長させようとします。

母親は、子どもが自分で自分の命を守れるようになるまで、ぜったいに死なないように、子どもを守ります。自分の遺伝子を後世に残すためには、このような「生まれてくる命を守る」という行動が母親にとって合理的になります。

そして、生まれきた小さな命を、より確実に守り、成長させるには、子育てに協力してくれる仲間が多ければ多いほど得策です。

ここで、話は、受精の仕組みに飛びます。「卵子は2つ以上の精子を受け付けない」という仕組みです。

つまり、ヒトのメスって、子作り(=交尾)自体は、1匹のオスだけでなく、複数のオスと可能であるにもかかわらず、卵子は、構造的に、1つの精子しか受け付けないのです。

精子は、子宮内で数日間にわたって受精可能な状態で存在できるので、複数のオスの精子が、1つの子宮内で共存することもあり得ます。

しかし、卵子は、たった1つの精子しか受け付けません。1つの精子と受精した途端に、卵子は、他の精子が侵入しないよう、ブロックしてしまうのです。

そうすると、卵子は、選ばれし1人のオスの遺伝子のみを受け継ぐことになります。これは、結局、生まれてくる子どもに利害関係を有するオスは、たった1人だということを意味します。

受精した精子の持ち主にとっては、生まれてきた子どもの命を守り、成長させる合理的な理由があります。生まれきた子どもは、自分の遺伝子を後世に運んでくれるからです。

しかし、受精した精子の持ち主以外の男性はどうでしょうか。自分の遺伝子を受け継いでいないわけですから、その命を守る理由はありません。

自分以外の誰かの遺伝子が後世に受け継がれる手助けをしてあげるような、お人好しの遺伝子は、とっくに淘汰されています。

自分の遺伝子だからこそ、後世に残さなきゃいけないんです。

だったら、自分以外の遺伝子を受け継いだ子どもを身ごもっているかもしれない女性が産んだ子どもの命を、男は救うでしょうか。

子どもが生まれたら、産んだ女性は、いろんな人の手助けが必要になります。それは別に、父親でなくてもいいです。

とはいえ、父親は、母親と同じくらい、生まれた子どもの命を守る理由があります。だって、自分の遺伝子を受け継いでいるからです。

「自分の遺伝子を受け継いでいる」という理由が共通するのは、父親と母親だけです。「たった1つの精子しか受け付けない」という卵子の構造のせいで、自分の遺伝子を子どもに受け継がせられるのは、母親と父親の2人だけなんです。

その結果、進化論的に、子どもを守り育てる合理的な理由があるのは、母親と父親、そして、母親と父親の両親、ということになります。

そうすると、女性としては、子どもの父親、そして、父親の両親の支援を得るために、「生まれた子どもは、間違いなく、あなたの(あなたたちの息子の)子どもですよ」ということを保証しなければなりません。

他の男とも子作りしてしまったら、生まれた子どもが、他の男性の遺伝子を受け継いでいる可能性が出てきます。そんな可能性が出てきてしまうと、父親や、その両親からの支援が受けられなくなってしまいます。

その結果、自分の遺伝子を受け継いだ子どもの命を守りにくくなります。

こう考えてくると、女性が自分の遺伝子を後世に伝える最適戦略は、父親が誰かを明確にしておいて、その父親から支援を受けることで、より確実に、生まれた子どもの命を守ることになります。

したがって、メスは、物理的には複数のオスと子作りすることができるとはいえ、オスを1人にしぼることになります。

そうすると、今日の本題である「父を知る」も、子どもにとって当たり前になってくるような気がします。

確かに、父親が誰かわからない状態のコミュニティもあったのかもしれません。「精子と卵子」なんて知識を、人類が獲得してから、たったの数百年ですから、例えば、「2人の男性と、生理終了から7日後から三日三晩毎日子作りしたら子どもができる」なんて文化が育ったコミュニティがあったかもしれません。

そのコミュニティにおいては、生まれた子どもの父親は特定されないまま、コミュニティ全体で生まれた子どもを育てていたでしょう。

その文化を前提にすると、父親が1人に特定されないからです。

しかし、生物学的には、父親は必ず1人に特定されます。だから、首尾よく父親が特定されないまま子どもが大きくなることもあったでしょうが、「どうも、こいつは俺の顔に似ていないし、むしろ、あいつの顔に似ているなあ・・・」なんて思う父親が出てくることも容易に想定できます。

その結果、いくら、父親を特定しないような文化が育っていたとしても、生物学的な構造からは逃れられず、「こいつは俺の子どもじゃねーよ」と思った父親が、子育てに協力しなくなることも十分にあり得ます。

だったら、やはり、「受精できる精子はたった1つ」という構造を正面から受けとめて、父親を明確にしておくほうが、母親にとって最適な戦略になりそうです。

そうすると、やっぱり、子どもは父親が誰か知っていることになります。母親にとって、父親を明らかにしておくことが最適であるのなら、母親から生まれた子どもにとっても、父親は明らかということになります。

僕は、こう考えました。だから、子どもは、父親を知っていることも当たり前なのです。

こういう理屈で、「子どもの出自を知る権利」は根拠付けられるのかな、と僕は思っています。

「母親から生まれる」という生物学的な構造によって、「母を知っているのは当たり前」ということになります。かつ、「卵子は1つの精子しか受け付けない」という構造があるので、メスはオスを1人にしぼって、「間違いなくあなたの子どもですよ」と保証することで父親からの支援を受けやすくしていて、その結果、「子どもが父を知っているのも当たり前」ということになります。

なるほどなるほど。進化の過程では、母を知ることだけでなく、父を知ることも、子どもにとっては当たり前だったようです。

現代社会では、親を知らなくても、子どもは何かしらの支援を受けて生きることができます。それはきっと、とても幸福なことなのでしょうが、進化論的な「当たり前」を喪失した状態で「生」を余儀なくされるのが「幸福」であると、断言してよいのでしょうか。

僕は、どうしても、疑問を拭えません。生みの親を知っているのって、進化論や生物学の観点から考えると、どうも「当たり前」な気がしてきて、この「当たり前」を保障してあげなければならないような気がします。

僕は別に、「生みの親が必ず育てなさい」と訴えているわけではありません。生みの親が育てられない場合に、他の誰かが愛情を持って子どもを育てられるようになった現代は、とても素晴らしいなと心から思っています。

とはいえ、育ての親と生みの親が違うことを知った子どもたちが動揺する現実を何度も目の当たりにすると、やっぱり、「生みの親を知っている」という状態は、どうにかして、保障してやらなければと思うのです。

そこで、足りない脳みそを働かせて、僕なりにいろいろと考えていたら、どうも、「出自を知る権利」は進化論や生物学の観点から根拠付けられそうな気がして、なんだかイイ感じです。

今日僕が書いたことなんて、きっと「車輪の再発明」で、今から1000年くらい前に誰かが思いついているでしょう。

もっともっと、これまで人類が蓄積してきた知識を勉強して、出自を知る権利の論拠を追究していきたいなと思います。

それではまた次回!・・・↓

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