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知らなければ自分を守れる

【 自己紹介 】

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このブログでは、2019年7月にうつ病を発症し、それをきっかけに同年12月からブログを始めて、それ以降、700日以上毎日ブログ更新してきた、しがないサラリーマン弁護士である僕が、日々考えていることを綴っています。

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【 今日のトピック:知識を仕入れない権利 】

僕は、知ることが好きです。

手垢の付いた言葉でいえば、「知的好奇心が旺盛」です。

知的好奇心という、本能的(生まれつきの)欲求が知ろうとする理由なんですが、それだけでなく、知ることによって幸せが近づくという実体験も、知ろうとする理由です。

というのも、知識が増えると、生き方が変わります。

例えば、知能は遺伝子による影響が大きいとか、幸せは人間関係の中でしか味わえないとか、そういった知識を得ると、知識に合わせて生き方を変化させることで、幸せを引き寄せることができます。

特に、現代社会では、本能と社会的な仕組みが矛盾していることが多く(例えば、誰にでも精子をばらまくことのできる男の生物学的な構造と、1人の女性としかセックスできない一夫一婦制は、矛盾しています)、ただただ生きていると、それだけで苦しみに襲われてしまいます。

もちろん、ただただ生きているだけで、自然と幸せになれる人もいるでしょうが、それは珍しいケースで、僕みたいに普通の人間は、工夫しないと、生きているだけでツラくて苦しいです。

だから、ツラくて苦しいのは、いわば当たり前なので、ツラくて苦しいことに必要以上に悩まなくてもいいんですが、しかし、ツラくて苦しいことにただただ耐えるだけじゃなくて、工夫して対処できるのなら、そうしたほうがいい。

そして、対処法は、知識を組み合わせて編み出すものだと僕は考えています。

知識が増えると、ツラさや苦しみへの対処法を編み出すことができて、そのおかげで、苦しみが和らいだり、幸せが近づいたりします。この意味でも、僕は知識を得ることが好きなのです。

ただ、知識を得てしまうと、「知らなかった」「知らないせいで間違っていた」という現実に直面してしまいます。

知識がなかったというそれだけの理由で、自分が間違った生き方をしていたというのは、めちゃくちゃ不都合な真実で、できれば見たくありません。

例えば、知能や学力は遺伝に大きく左右されますが、この知識がないと、「勉強の成果は努力量に100%左右される」と勘違いして、我が子に対して勉強を強要し、テストの結果が悪い原因を、すべて、子ども自身の勉強不足だと決めつけてしまいます。

その結果、我が子を苦しめてしまいますが、しかし、その所業も、「勉強の成果は努力量に100%左右される」という理由で正当化していたわけです。

「テストの点数が、努力量に100%左右されるのだから、勉強を強要するのも正しい。勉強をさせることで、我が子は苦しんでいるが、それは、必ず成果として現れるから、我が子のためになっている」

こういう理屈で、勉強を強要していたわけです。我が子が苦しんでいても、この理屈があるから、自分を納得させることができていました。

しかし、「知能や学力は遺伝の影響を大きく受ける。平均して7割程度、持って生まれた遺伝子によって左右される」というのが、実際は正しいです。

我が子に勉強を強要させることを正当化していた↑の理論は、間違っていることになります。

そうすると、正しい知識を得ることで、過去の自分が間違っていたことさえも知ることになってしまいます。

この現実って、とても悔しいんです。僕もそうです。自分が間違っていたことに気づくのは、単純に悔しいです。その過ちが、大きければ大きいほど、悔しいんです。

かけがえのない自分自身が「間違っていた」という現実は、直視したくありません。

僕は、知識が幸せにつながるという実体験を経て、なんとか、↑の悔しさをぐっとこらえて、「知ることができてよかった」というふうに思うようにしていますが、それがいつでもできるわけじゃありません。

悔しくて悔しくて、現実から目を背けて、そのままになることがあります。

で、ここからが今日のテーマですが、そういった「現実逃避」を尊重する必要があるんじゃないの?と僕は思うようになりました。

例えば、ユダヤ教徒やキリスト教徒が信じている(旧約)聖書の創世記部分(神が世界を生み出して~)は、科学的には完全に誤りです。

実際は、最初の命が生まれた後、何十億年も時間が経つ中で、環境と無数の命との相互作用によって、いろんな命が、環境に適応する形で進化し、その結果、チンパンジーと共通の祖先から、人類(ホモ・サピエンス)は枝分かれして誕生しました。

それが、科学的な「正しい結論」なんですが、しかし、この正しい結論を信じないユダヤ教徒やキリスト教徒の考えを尊重しなくていいかというと、そんなわけありません。

「ユダヤ教徒」とか「キリスト教徒」なんて言うと、現代を生きる僕たちとしては、「信教の自由」という文脈で、思想を尊重するという発想になりやすいですが、しかし、「現実逃避」という意味では、知識を知ろうとしないのも同じだと思います。

さっきの例で言えば、「知能や学力は遺伝の影響が大きい」という知識を得ようとしない、つまり、「勉強の成果は努力量によって100%左右される」という知識に固執するのも、ユダヤ教徒やキリスト教徒が創世記を信じることと同じように、尊重するべき「現実逃避」だと僕は思います。

知識に固執した結果、子どもが苦しんでいるのなら、それは、児童相談所などの行政機関が介入して子どもを助けるべきだとは思いますが、しかし、親の思想自体を無理やり変えさせることはできません。

どれだけ間違っていても、間違ったものを間違ったまま信じることは可能で、それは尊重しなきゃいけません。

その根拠は、「尊厳」です。

尊厳を傷つけられることは、本当に苦しくてツラいです。だから、自分の尊厳を傷つけられないようにするために、間違った知識に固執するのは、たしかに、「けしからん態度」だとは思いますが、しかし、それは尊重に値する行いです。

そういったルールで、社会は回っています。

もちろん、「尊重しなきゃいけない」のがルールだからといって、話し合いの余地がなくなるわけじゃありません。存分に話し合って、歩み寄りができるなら、そのほうがいいです。

ただ、知らないようにする(知識を仕入れない)ことで、自分の尊厳(プライド)が守れるというのも事実で、そして、自分の尊厳というのは、そこまでして守らなきゃいけないほどの価値があるんです。

「尊厳」とは、人が人として生きる上でかけがえのないもので、だとすれば、人類ひとりひとりに平等に尊重されなければなりません。

僕もきっと、直視したくない現実から知らず知らず目を背けて生きています。

そこを、「それはおかしい!」といって、誰かから「現実を直視しろ!」と無理やり自分の無知に気付かされるのは御免被りたいです。

無理やり自分の尊厳を傷つけられるなんて、踏み絵と同じです。

自分の尊厳を守るために、知識を仕入れない権利があって、それは尊重しなきゃいけないのです。

考えが間違っているからといって、人が人でなくなるわけじゃありません。かけがえのない1人の人間として、最大限尊重されます。

だから、僕は、知識を仕入れないことを責めません。責めることができないからです。

ただ、知識を仕入れることで、苦しみが和らいだり、幸せが近づいたりした実体験がある僕としては、知識を仕入れることをオススメはします。

今のところ、僕は、知識が幸せに役立っていますが、そのうち、知識が幸せを遠ざけると思うようになるかもしれません。そうなると、「無知のススメ」みたいな思想に切り替えるかもしれません笑。

ま、そのときはそのときで。

それではまた明日!・・・↓

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