桜咲く春に感じたこと
こんばんは。デルタと申します。
私は精神疾患や発達障害を持ち長年病気と向き合い生活を続けているものです。
今回は3月、今年度の終わりに思ったことや感じていることを徒然なるままに記してみようと思います。
※ネガティブな内容を記すつもりです。そして、読んでいる皆様には有益なことは一つも書くつもりはありません。
私は実に無力に感じることがあります。今までの人生、時折ネガティブな感情を抱くことが多々あります。
何のために生きているのか?幸せとは?、そして、今努力をしていることそれ自体が意味のあることなのかと…
いつも周りの評価を気にして、顔色を伺ったり、わざと戯けた馬鹿なことを言ってみたり、何をしているのだろうか?と常々思います。
昨日、今日と桜を観ながら何となく思いました。今幸せなのかも知れないと。しかし、それは長い冬が終わり桜が咲き、やっと少しずつ自分の生き方、働き方、そして人生の目的を考えていかなければいけない等と想いに思っているからだと感じます。
夜桜は綺麗でした。また、昼間の桜もとても綺麗でした。昨年の桜咲く春に様々なものを失った時間を忘れるかのように…ただ1人部屋に篭ると今までの辛い春、特に昨年の人生を諦めかけた春を重ねてしまう。そんなことをずっと考えていました。
前を向きたいと思っても、向けない日もあるんだなと感じました。高校時代、最後の最後まで努力しても合格できなかった春、就職試験に失敗して、仲間との別れに苦しかった春、社会に出ても中々組織に適応できなくて、いつも孤独だった春、そしてあの人のサインにずっと気づかず、私の過ちにより苦しかった昨年の春…。
特に昨年は某所でのあの人の最期の笑顔がどうしようもなく苦しかった…。
あれから一年、もう一度初心に戻り前向きに努力をしたいと何となく思います。
それにしても、私は周りからどのような人間に思われているのだろうか?
いつも自分自身に問いかけています。
正直なところ、私にとって春は一番好きな季節ですが一番苦手な季節でもあります。今まで出逢ってきた方々との別れを連想させ、とても苦しいのです。
今の組織に所属し、やはり毎年出逢いや別れが続きます。私は見送る側、見送られる側だとどちらが良いのか?等と考えることがしばしばあります。毎年、様々な人を見送ってきましたが本当に苦しいですね。いっそのこと見送られる側に回りたいと思うこともあります。そして、こんなネガティブな私から卒業したい…そう感じます。
冬の間は、「桜咲く春に笑顔になりたい」と思っていました。しかし、私の中の答えは、「どの季節でも浮き沈みはあっても、笑顔になれる瞬間に幸せな気持ちになりたい」ということです。
学生時代や社会に出てからの辛い経験…以前私はある方に、「デルタさんにはもっと楽な生き方があるんじゃないの?」とも言われたことがあります。
私も常々思います。「もっと楽に生きたい」と思う瞬間が時折あります。しかし、私の心の中の感情がどうしても悔しくて、楽な方に行けません。おそらく、まだ仕事にしてもプライベートにしても諦めきれない心の奥底にある感情が揺れ動いているのだと思います。
そろそろ自己の精神状態について本当の受容をしなければいけないと何となく思います。できないことはできない。やらなくても良いことはやらない。嫌なことは引き受けない。そして、好きなことや興味のあることに注力することの方が遥かに私の人生にとっては良いことなのかも知れません。
そして、そんな気づきがあり、実りのある春を今年は迎えることができたのかも知れません。
本日は今までの人生を考えるとともに私の状態についての整理をしてみました。
未来への不安や苦しい自分を受け入れ、ゆっくりと自分の脚で自分の人生を歩んでいこうとささやかながら思います。
令和6年3月31日
デルタ
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