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いかのおすし⑫ 【モジュール学習】

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《美桜ママ》

「ね、どした? 大丈夫? 旦那って何のこと?」

杉崎さんの声ではっと我に帰る。中島という名前を聞いて、私は無意識に「旦那だ」と声が出ていたのかもしれない。
「あ。ごめん。美容師の中島って。もしかして……元旦那じゃないかと思って」
 
「えー!」と杉崎さんは大袈裟な声を出す。
どうしたの? ねぇ、どうしたの? という友香ちゃんの声と咳き込む音。「ちょっとあなたー、友香おねがい。クスリあげて」と、杉崎さんは旦那さんに向かって言ったようだった。場所を変えたのか、数秒待たされてまた電話口にもどった。
 
「それって、離婚した旦那が勝手に娘を連れてっちゃうってやつ? だめじゃん。それとも今日は会わせる予定の日だった?」
「あ、いや違うけど」

私は口ごもった。離婚してから一度も会わせていないことは、私が人間失格と思われそうで言い出せない。

「あれ、でも美容師の中島さん……いや、パパとかそんな感じじゃないと思ってたけど、私の勘違いかな。ちょっと友香に話を聞こうか」
杉崎さんは心配そうに聞いてくる。
「あ、いや、いい。だいじょうぶ」
仮に美桜が今日「美容師の中島さん」と一緒だとして、それがパパだと分かっているとは思えない。私に隠れて会うなんて、美桜がそこまで上手に隠せるとは思えない。だったら友香ちゃんに「その人が美桜のパパかも」なんて余計なことは言って欲しくない。

「アンと3人一緒なのかね。でも本当にパパだったりしたら、なんか複雑だね。娘の彼氏と会うパパ」
「彼氏?」
「あ、別に彼氏じゃないか。はは」
杉崎さんの呑気な言い方に少し苛ついた。
「誰、彼氏って」
「え、だからアン君だよ。ごめんって。冗談」
苛つきよりも疑問の方が大きくなった。

「ちょっと待って。アン君って……男なの?」
「えー、何言ってんの、そうだよ知らなかったの?」
杉崎さんは、心からびっくりしたような、でも少し間延びした声で言った。
「グエンなんとかアンだっけ。忘れたけど。やだ。女の子だと思ってたの。そっか。まあ美桜ちゃんだって言いにくいよね。男の子と二人で遊ぶとは」

「え、佐藤杏さん……じゃないの?」
「あーそうそう。グエン・ヴァン・サトウ・アン、かな。そんな感じ」

頭が真っ白になった。
杉崎さんの言葉が理解出来た瞬間に、今度は苛立ちの矛先が自分自身に向かってきた。
なんで気づかなかったんだろう。美桜から「アンさん」と言われて勝手に女の子だと思い込んでいた。美桜の話をちゃんと聞いていたんだろうか。自分の馬鹿さ加減が本当に嫌になる。
 
そうか。3年生の途中から何人も外国籍の子が転入してきて、学校からのお便りにまとめて名前が書かれていた。美桜のクラスにもひとり。
ベトナムにいるときから日本が好きで、頑張って日本語を勉強しているから国語がいつも満点だと。美桜が仲良くなったと自慢していた。

そうだ。私が公園で見かけた黒いランドセルの子。あの子かも……。きっと、そうだ。

だとすると……。

さっきまで晴れていた空。
急に、灰色の雲が覆いつくすように流れていく。

別に、その子が美桜の彼氏かどうか、それはどうでもいい。そんな感情があるとしても一時的なものに違いない。
ただ……。
 
胸の奥底に封じ込めていた何かが。黒い何かがミシミシと音を立てて網目のように広がり、あっという間に肺を埋め尽くす。無意識に呼吸が浅くなって、息苦しい。
 


こっそり覗いた夫のノートパソコン。 
動画より先にクリックして見ていた「番号」が振られた画像ファイル。笑顔で可愛らしい子供たちが一人ずつ写っていた。東南アジアのどこかで撮影された、単なるフォトスナップだと思った。
それが怪しいものだとは全く思わなかった。
どの写真も上半身は裸だったけれど、どれも男の子だったから。豊かには見えないその地域なら、その格好は別に普通なのだろうと勝手に解釈した。

そして、嫌な予感がした例の動画を開いたとき。
動画の中の子が、写真の中の1枚と同じ顔をしていたことに、私は気付いた。

――無理だ。
――見なければよかった。
――彼が、そういうものを好むだなんて。

――私は、この人の何を知っていたんだろう。この人は、どうして私と一緒になったんだろう。

あの時の消化しきれない感情が再び私を覆いつくした。

――なんで私じゃダメなのよ! なんで私には何も教えてくれないの! あの写真はなんなの。なんで私と寝たの。なんで籍入れたの。私の事なんか、ぜんぜん好きじゃなかったくせに。あっくんのこと、もう何もかも分かんないよッ!

どんなに怒りをぶつけても、私の心は晴れなかった。

あの外国人の子の、大きな瞳が。涙で濡れた瞳が。私を見つめている。助けを求めている。
今、目を閉じてもそれが瞼に焼き付いて離れない。

私は、中島がベトナム人の男の子と一緒にいるかもしれないという現実を、どう受け止めていいのか。分からない。
 

 
「そろそろ帰ってくると思うけど。何かあったら心配だからまた連絡して」という杉崎さんに「ありがとう」となんとか返事をして通話を切った。
私はホーム画面の、数年前の美桜を見つめる。
いま、誰と、どこにいるの。
 私は無意識に駆けていた。公園を見渡しながら息をきらし、気付けば公園の端まで着いていた。
そこには、水色のフレームに茶色のサドル、カゴに濃いピンクのヘルメットが入れられた自転車が一台とめられていた。
美桜の自転車だ。美桜はまだ、家には帰っていない。
ここから、どこに行ったの。

「みおーー!」
周囲を見渡しながら大声で叫ぶ。

「みーおーーっ!」
川にも、土手にも。人影はない。

握っていたスマートフォンをまた見つめた。
アドレス帳を開き、「ナ」の欄までスクロールする。
以前は、すぐにタップできるように「あっくん」と登録していた名前。離婚してからはフルネームで残しておいた。
離婚してからほとんど連絡していない。まだつながるだろうか。
 
震える指で彼の名をタップする。
スマホをそっと耳にあて、神経を集中させた。けれど何度コールしても中島は出ない。

留守番電話の機械的な女性の声が始まったけれど、もう番号が変わっているのかもしれない。メッセージを残さず通話を切ってから、自分が息を止めていたことに気付いた。
 
そうだ。
お昼ごろに着信のあった、見覚えのない番号。もしかしてアンのお母さんの携帯かもしれない。「今一緒に遊んでます」という言葉を微かに期待する。
きっと、そう。なんで今まで気づかなかったの。そうであって。

知らない番号を急いでタップし、耳はコール音に集中しながらも、目は公園を遠くまで見渡す。
美桜が近くに隠れていればいいのに。今でてくれば怒らないのに。

外国籍の子どもは学校に通って日本語も上手だけれど、その親はあまり日本語を話せない場合が多い。そんな状況で来日して働き、コミュニケーションをとれずにトラブルを起こすこともある。
電話で、ちゃんと日本語が通じる人だといいけど。
 
コールが何度繰り返されても、こちらは留守電にもならない。
 
腕時計の長針がひとつ進むだけで焦りがつのる。
15時01分。まだ明るいのに。
うるさいくらいコールを鳴らし続けた。

美桜。早く帰ってきて。

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